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1996年5月、サンパウロ市にて 佐藤常蔵さん(さとう・つねぞう)

一九〇七年北海道函館市生まれ。一九二二年、日本力行会員としてブラジルへ渡る。
 サンパウロ州ベラ・ヴィスタ耕地に入耕。一九二七年、雑誌「農業のブラジル」社に入社。一九三一年、同社経営責任者となり、農業知識の普及、ジャーナリスト、ブラジル歴史研究者として健筆をふるい、ブラジル力行会相談役をつとめる。サンパウロ歴史地理学院名誉会員。
一九九七年五月二八日サンパウロ市にて没。享年九十歳。

 輪湖さんとの出会い
 ぼくは大正十年に力行会に入りました。力行会がまだ小石川の林町にあった時代です。ある日、(寮で)寝てたら、誰かぼくの布団に潜り込んでくるんですよ。びっくりして、よく見たら三十代くらいの人ですよ。仕方がないんで端っこの方に体を寄せて寝たんですが、それが輪湖さんだったんですよ。ええ、そうです、信濃海外協会をつくられる前ですね。秋だったと思います。輪湖さんは時々ふらっと帰ってきて、誰の寝床でももぐりこんで寝るんですよ。とにかく風変りな人でした。
 ぼくらは輪湖さんのことをブラジル博士と呼んでいました。輪湖さんという人は博識で、どんなことを聞いても、「それはこういうことだ」と話をされるんです。ぼくはまだ十四、五歳でしたからね、いや、ほんとにすごい人だと思いましたよ。
 その翌年、大正十一年の三月にぼくは神戸から神奈川丸でブラジルに来たんですが、輪湖さんと同船でした。その時はもう信濃海外協会ができてブラジルへ帰られる時でしたが、船でも輪湖さんは変わった面白い人だと有名でした。

 アルモニア学生寮で
 戦後、はじめて力行会の会員が集まったとき、何かこれからの時代に役に立つことをしようというので、二世のためにアルモニア学生寮を建設することになりました。このとき、輪湖さんは手伝ってやると募金のためにずっと地方を歩いてくださいました。現在のアルモニア(学生寮と小中学校)があるのは、輪湖さんの献身的な奉仕のおかげです。学生寮の建設当時はずっと輪湖さんといっしょでした。「進路」という機関誌を出してましてね、よく編集のことで夜おそくまで話し合ったものです。輪湖さんからはいつも「佐藤君、文章は書く人の人格の反映だぞ」と言われました。

 輪湖さんの最後
 輪湖さんが亡くなられたとき、わたしはちょうどシュヴァイツアー博士の原稿を書いてたんですよ。シュヴァイツアー博士が亡くなられたのが(一九六五年)九月七日で、その翌日八日に輪湖さんが亡くなられたんでよく覚えています。シュヴァイツアー博士はアフリカで住民救済のために働いて、アフリカで亡くなられたけど、輪湖さんもひたすら移住民のために尽くされ、自分で拓かれたチエテ移住地に骨を埋められたでしょう。なにか一致するところがありますね。
 亡くなられる前(一九六五年)に、わたしは文化協会の巡回講演でペレーラ・バレット(チエテ移住地)に行ったんで、輪湖さんのお宅をお訪ねしました。喜んでくれましてねえ。もうその頃は輪湖さんのお宅がダムで浸水するという話が出ていましたが、輪湖さんは「ここは俺が開拓して育てた移住地だ。たとえ水浸しになっても動かんぞ」と言っておられました。

一九九六年五月二十三日、サンパウロ市にて

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