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若者たち

木村 快
ユバの若者たちと木村

 日曜日の午後、若者たちがぼくと話したいと集まってきた。十五歳から二十四歳までの若者だが、働いている姿を遠くから見てるときにはそれほどにも感じなかったが、集まってみると女の子も含めてみんなわたしより背が高い。当たり前といえば当たり前なのだが、子どもの時の印象が強いため、子どもたちが確実に育っているという実感を持つ。
 わたしは一九九七年に、国際交流基金の助成でヤマの演劇指導に当たったことがある。演目は農場の熊本エンミが脚色した日本東北地方の民話「食べられたやまんば」だが、このとき山姥相手に奮闘するわらし(子ども)たちを演じたのがこの青年たちで、当時はまだ可愛い小中学生だった。
 農場内の日常語が日本語であり、幼時からクリスマスの舞台を踏んでいることもあって、日本の子どもたちでは不可能と思われるほどのいきいきした日本語のせりふで観客をうならせたものである。サンパウロ市で上演したとき、「この子たちはどうして日本人の子のように自由に日本語がしゃべれるのか」と、日系社会の一世たちが感動していたのは印象的だった。もう日系の二世三世はほとんど日本語をしゃべれなくなり、孫たちとの会話がむつかしくなっていたからである。聞けば、今では第一アリアンサの青年会二十五名のうち十五名がユバの若者たちである。ちなみに青年会は十四歳から二十九歳までで、ユバの若者たちが日本語を喋るので、アリアンサの若者たちも次第に日本語で会話をするようになったとも言う。
 ヤマの若者たちは四、五年前までは高校を出るとサンパウロの大学へ進学するか、アメリカや日本へ出稼ぎに行くのが普通だったが、イサム(矢崎勇・二十四歳)は二年前、アメリカの農業研修からヤマへ戻って来た。いま、イサムは先輩の弓場克彦と組んで、農場の経営を安定させるため周辺のスーパーやフェイラ(市場)にヤマの生産物を直販するルートを開拓している。ダイゴ(弓場大五・十九歳)やウミ(辻海・十九歳)もアメリカの農業研修から戻って来たところである。ヤマの経営会議は誰でも参加できるシステムだが、会議を傍聴していると彼らの積極的な発言がヤマを変貌させつつあることを感じさせる。
 一世の老人たちが次々亡くなり、ヤマは今大きな転換期を迎えている。自分たちとしては何とかヤマの農業を守って行きたいと思うが、ヤマの精神を失ってはならないとも思う。けれど、ヤマの精神とはいったいどんなことを意味しているのかについて議論が続いた。ヤマの未来は未知数だが、彼らが中心になっていくころ、ヤマは新しいブラジル文化の一角を築くことになるだろう。


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