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アリアンサをたずねて 2

 先駆者たちの足跡

 そして八〜九時間も走った頃、ようやくペレイラ・バレット市に到着。アリアンサ移住地建設後、日本の国策として「ブラ拓(国策会社・ブラジル拓殖組合)」によって開拓された「チエテ移住地」のあった所である。今は整備された市街地の中にあるメモリアルの碑が、移住地跡としての痕跡を残しているだけのようである。
 それからチエテ河へ向かった。永田さんは河のそばに車を止めた。向こう岸が見えないほどの川幅がある。私達のそばで例の白い牛が、河の水を飲んでいた。
 そこにはダムが造られたために水没してしまった美しいオリエンテ橋があったのだそうだ。それはアリアンサ移住地に入植した木村貫一郎工学士が設計施工監督したものだったということである。この河に今、その橋のないことを残念に思いながら、新しくできた長い橋を渡り、いよいよアリアンサ移住地へ向かった。
 チエテ河から一〇キロばかり赤土の道路を走ったころ、永田さんが前方に見える赤い屋根に白壁の建物を指差した。
「あれがミランダ事務所のあった所ですよ」
 移住地が建設される前、輪湖俊午郎がこの土地を移住地候補として選定した後、永田稠が土地売買契約を結んだ相手、当時のサンパウロ上院議員・ミランダの事務所が置かれていた所である。
今は赤い大地に果てしなく広がる牧場が見えるだけだ。かつて、はるばる日本から「理想の村造り」を夢見て移住した日本人たちは、いったいどのように格闘してこれだけの広い大地を切り拓いたのか。それは血と汗の染み込んだ大地に違いないのである。思わず車を止めてもらい、赤い大地に降り立って、しばし自分の足で踏みしめてみた。
 一九二六(大正十五)年に鳥取海外協会と信濃海外協会が共同開設した「第二アリアンサ移住地」に入る。まず、第二アリアンサ移住地の中にある学校(日本語学校)へ行った。そこで、その敷地内に今も建っている「第二ありあんさ・最初の入植地点・一九二六年八月七日」と彫られた石碑を見る。立派に建築された学校の建物と移住地碑を見て、当時の移住者達の、理想の村造りへの意気込みが感じられた。
 再び車は走って、第一アリアンサ移住地の「北原地価造公徳公園」に到着する。そこにはアリアンサ移住地の生みの親の一人であり、理想とする村を造るため心血を注いで奮闘した輪湖を称える「輪湖俊午郎公徳碑」と、私の最も注目していた日本人の海外発展のため日本とブラジルを繋いでアリアンサ移住地建設のため奔走した人物、日本力行会会長「永田稠の胸像」が建てられていた。
 そしてその側に建っている「阿りあんさ最初の入植地点・一九二四年十一月二十日」と彫られた石碑を見る。移住地建設の夢の実現に向かって、その後の苦難をも覚悟して精力を使い切るほどの行動を成したのだと、その大事業の重さが伝わってくる。私は、移住地建設の初めての斧を振り下ろしたその場所に立ってみて、大正時代末期の日本人の持つエネルギーと、拓人としての勇気を実感した。移住地開設から七十五年たった今、ご子息である永田久さんと共に「永田稠の胸像」の前に立っていると、先人たちは私に何かを語りかけてくれているようだった。しかし、私はそれをいかほど理解して聞くことができるのだろうか。

案内してくださった永田久さんご夫妻と筆者 永田さんはアリアンサ移住地創設者永田稠氏の六男。宇都宮農業高等専門学校卒業後、ブラジルへ渡り、第三アリアンサで営農。現在、ブラジル力行会会長、日系人のための雑誌「のうそん」主宰者。

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