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ユバを育てたアリアンサ移住地

創設者北原地価造邸の骨格を使い、輪湖俊午郎邸の材木を使って復元した移住記念資料館と小原久雄記念彫刻庭園。 創設三先駆者モニュメント。アリアンサ創設者永田稠をブラジル在住の輪湖俊午郎理事と北原地価造理事が支えた協同を表している。小原久雄作品。
創設者北原地価造邸の骨格を使い、輪湖俊午郎邸の材木を使って復元した移住記念資料館と小原久雄記念彫刻庭園。 創設三先駆者モニュメント。アリアンサ創設者永田稠をブラジル在住の輪湖俊午郎理事と北原地価造理事が支えた協同を表している。小原久雄作品。

 珈琲(コーヒー)より人を作れ

 一九二六(大正一五)年にはすでにアリアンサ移住地に共鳴する鳥取海外協会、富山移植民協会が参加し、アリアンサには三移住地が誕生し、五〇〇家族以上が入植していた。さらに昭和二年にはアリアンサの隣接区に熊本海外協会がノーバ・アリアンサ(新しい村の意味)移住地を建設している。
 ところが昭和六年、政府の移住政策が変更され、アリアンサの信濃・鳥取・富山・熊本四移住地は国策移住地への転換を迫られる。アリアンサの創設者信濃海外協会はこれを拒否。しかし国策会社の圧力は強まり、鳥取海外協会は母県の意向で独立を声明、富山移植民協会も国策への移管を承認、アリアンサは国策併合派と反対派の争いで混乱を極め、力行会員必死の奔走にもかかわらず住民の離脱は相次いだ。
 永田稠は移住地立て直しのために自らアリアンサへ乗り込み、力行会員に「珈琲より人を作れ」と激励し、アリアンサ住民の動揺を克服すべく全力を挙げた。
 昭和九年、ブラジル政府が日本移民を制限することが確実となり、永田稠は住民保護のため、国策移住地への併合を決断、自治協同の村は終わりを告げた。そしてアリアンサ精神継承の農場として弓場農場が生まれた。
 アリアンサは戦時下の日本人敵視政策に耐え、戦後の混乱期を乗り越え、「珈琲より人を作れ」の移住地として生き残った。

  日系文化のふるさと

岩波菊治 歌碑

ふるさとの信濃のくにの山川は
こころにしみてとわに思はむ
        岩波菊治 歌碑

木村圭石 句碑

籐寝椅子
したしむ 南十字星
   木村圭石 句碑

佐藤念服 句碑

珈琲の
花あかりより いでし月
   佐藤念服 句碑

二〇〇三年、長野県知事としては創設以来初めてアリアンサを訪れた田中康夫知事とアリアンサの最長老、新津栄三氏。 アリアンサは日系ブラジル文化発祥の地でもある。アリアンサ中央公園にはアリアンサ創設三先駆者のモニュメントをはじめ、ブラジル短歌・俳句の先駆け、岩波菊治、木村圭石、佐藤念腹の歌碑が建てられている。
 日本力行会アリアンサ建設先発隊の中にアララギ派歌人島木赤彦に師事した岩波菊治がいた。一九二五年には高浜虚子の弟子、佐藤念腹と木村圭石が入植。この三人が一九三〇年にアリアンサで発行を始めた「おかぼ」がブラジルにおける句誌・短歌誌のはじまりである。この日本特有の短詩形文学は、日本語新聞への投稿という形でたちまち移民たちの間に広がっていった。
 移民を送り出した記憶を失った日本からの文化支援は期待できず、今や日本語の継承は難しい。当然、ブラジル短歌・俳句の未来は厳しい。だが、多くの移住一世・二世たちが残した短歌や俳句は、民衆の生きた歴史証言である。何時の日か日系人のアイデンティティとして見直される日が来るだろう。

左写真:二〇〇三年、長野県知事としては創設以来初めてアリアンサを訪れた田中康夫知事とアリアンサの最長老、新津栄三氏。



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