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◆資料1 長野県の歴史 (一九九七年山川出版社刊)
コラム「ブラジルから満州へ――全国一の満州移民送出県の思想」二九五ページ

 「南米に信濃村の建設! 稍(やや)大きな問題である、夢であろうか否! 建御名方(たてみなかた)の子孫として‥‥信濃民族が之の高潮せる理想によって……南米ブラジルに信濃村を創設することは真乎(まことか)ふさわしき問題である、長野県教育者の高唱によって‥‥信濃民族中より選民された‥‥老若男女‥‥によって、今や鮮やかに信濃村の萌芽が植え付けられつつある。新しい村自由の精神に生きる村、貧富貴賤の差別の少ない村存分に働くだけの土地を与へらるる村理想の村が建てられんとしつつある」。
 明治四十一(一九〇八)年四月二十八日、一六五家族七八一人の移民をのせた笠戸丸が神戸港から出航し、ブラジルへの移民がはじまった。さらなる発展を、信濃教育会の力によって、うながそう、とした中村国穂の「南米信濃村建設に就て教育者の一顧を望む」 (「信濃教育」大正八年八月十五日)の一説である。ブラジル信濃村(アリアンサ移住地)の本格的な建設は、大正十二(一九二三)年五月十三日、信濃海外協会の新事業としてはじまった。建設の思想は、同郷同国人による同郷同国とかわらぬ共同体作り(郷党的親睦思想)に核心がおかれていた。
 昭和六年九月十八日勃発した満州事変により、日本の移民政策はブラジルから「満州」(中国東北部)に反転した。南米信濃村の建設に自信をもった長野県は、長野県の分家とみる満州信濃村を建設しようと、「満州信濃村建設」「拓け満蒙! 行け満蒙!」のもとに、全国一の満州移民を送り出した。しかもこの形態は、日本の満州移民政策の根幹になって全国的に推進された。他民族を排除するこの建設思想の代償の一つが、「中国残留婦人・孤児」問題を生んだ。

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