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わたしとアリアンサ

木村 快

 わたしがブラジル移住に関心を持ちはじめたのは1976年に「帰郷」という作品を書いたことからでした。
日本列島改造論が叫ばれ、つぎつぎ山が削られ、海が埋め立てられはじめた時代でした。たまたま三浦半島を取材中に、現在の横須賀市日比あたりの山が削られている現場を見て、その大規模さに度肝を抜かれたものです。日本で暮らすわたしたちにとっては、ただ何となく時代の流れに取り残されまいとあがいているにすぎないような毎日だったのですが、あのすざまじい自然破壊の現場を目撃したとき、われわれ日本人はいったいどこへ行こうとしてるのだろうと、慄然としたのを覚えています。
1960年代まではまだブラジルやパラグアイなど南米への農業移住が行われていましたから、もし、あのあたりから南米へ移住した人がこの現場を見たらどう思うだろうということから、「帰郷」を書くことになったのです。

 「帰郷」の主人公は戦後の貧しさから逃れるために南米へ移住したのですが、思うように生活も安定せず、十年ぶりに郷里に舞い戻ってきます。ところが、帰ってみると懐かしい山も川も失われ、田圃や畑は住宅街に変貌しています。そして兄や姉も人が変わったように金、金、金で目が血走っています。相続権を持っていた主人公は心迷うのですが、やはりこの国では暮らせないと、残った畑を花づくりに打ち込む姪と母親のために確保し、自分はまた南米に戻っていくという話です。

 しかし、南米移住の実状についてほとんど知らない自分が、ただ自分の書きたいテーマを浮き出させたいためだけに南米移住者を使ったことに何とも後味の悪いものが残りました。
そこで一九七八年秋、思い切ってブラジルの移住地を訪ねてみることにしました。サンパウロからアマゾンにかけて三ヶ月ばかり移住地を訪ね歩きましたが、当時ブラジルにはすでに100万人近くの日系人が暮らしているというのに、(現在では130万人)高度経済成長に酔った日本人からはほとんど忘れられているという現実がひどく気になってきました。
ブラジルを訪ねたことは、わたしにとって世界観、ものの見方考え方を変える一つの転機になりました。

 移住はたんに住む場所を変えるという問題ではなく、実は異文化圏に移って生活することですから、日本ではほとんど自覚することのなかった日本人の生活感覚が、否応なく異文化との摩擦にさらされることになります。
移住者の苦労話を聞いているうちに、移住の歴史とは日本人が異文化の人々との共生に苦闘した歴史なのだと思うようになりました。
ブラジル生まれの二世たちは、日本人の子供であっても、国籍上も文化的にもブラジル人です。一世たちは家庭の中で二世の子供たちと文化的な葛藤をくりひろげることになります。現在の日本でも、戦後、社会環境が激しく変化したため、親と子供の間には相当な文化的ギャップがあって苦労しているわけですが、日系一世と二世、三世の間は大変な文化的葛藤があるようです。

 また、現在の日本では外国人に対する差別が問題になっていますが、アメリカでもブラジルでも、日本人移住者たちは逆の立場で苦労を重ねてきたわけです。
こうした同胞たちの苦労は、これからの時代、わたしたちが世界を相手にあじわう異文化摩擦の雛形であったはずです。国際化とかグローバル化とかいった言葉は、なんとなくひびきのいい言葉ですが、自分たちの文化の中でだけものを考えてきた日本人にとって、これは大変厳しい問題です。
現在の日本の政治経済の混乱は、その根底に異文化と向き合う覚悟ができていないためだとわたしは考えています。だからこそ、わたしたちはもっと前向きに移住の歴史を振り返る必要があると思うのです。

 最初のブラジル訪問から12年目に、わたしは「もくれんのうた」という作品を書きました。
これは1960年代のエネルギー政策の転換で炭坑を追われ、ブラジルに移住した男が三十年ぶりに帰郷し、日本社会の変貌ぶりに驚き、また傷つく話です。
この作品は1994年に現代座がブラジルに招聘され、サンパウロからアマゾンにかけて13都市で日系人を対象に上演されました。このブラジル公演で、わたしたちはブラジルに多くの友人を持つことができました。中でもサンパウロ州のアリアンサ移住地にあるユバ農場とは、その後も交流を続けています。

 ユバ農場はサンパウロ市から600キロも離れた奥地にあるのですが、ブラジルでは農民によるバレエ団として広く知られるユニークな共同農場です。この農場は実に不思議な集団で、1936年に創設されて以来、何の規約も持たず、来る人はこばまず、去る人は追わず、それぞれが自由に働き、自由に芸術創造に携わり、そしていまでも日本語で生活しています。もちろん、農場の外ではポルトガル語を使うバイリンガルです。これはブラジル日系社会でもきわめて珍しいことです。すでに四世の子供たちがどんどん育っているのですが、わたしの観察では、彼らは日本の子どもよりずっと生活感のある日本語を話します。

 この農場の歴史を調べていくうちに、ユバ農場はある特定の考え方を持った人々によって組織されたものではなく、実はアリアンサという移住地の辿った歴史が、このような農場を生み出したのだということがわかってきました。アリアンサとは「共同、盟約、和親、協調」といった意味を表すポルトガル語です。1925年(大正14年)に創設されたこの移住地は、最初に「移住地」という用語を使った入植地だったこともわかりました。それまでは移住者の入植地は「植民地」と呼ばれていました。ちなみに、日本政府が「移民」という用語を「移住」とあらためたのは1951年(昭和26年)になってからです。

 ところが、アリアンサ移住地の成り立ちについては公式のブラジル移住史にもほとんど出てきません。いったいこの不思議な移住地はどのようないきさつで誕生し、どのような運命を辿ったのか。また、従来の移住史ではどのように見られていたのか。すでに二世、三世の時代になり、この移住地の成り立ちについては、地元でももうよくわからなくなっています。わたしはアリアンサを考えることによって、自分の国日本の文化のありようを考えていきたいと思っています。


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