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協同の大地・アリアンサの夢を追いつづける
コムニダーデ・ユバ
木村 快

 アリアンサはサンパウロ市から西北方600キロの奥地、ミランド・ポリス郡にある。現在ではブラジルのどこにでもある農村の一つだが、かつてはアリアンサ(協同・協約の意)の名が示すように、ブラジル移住史上でもきわめてめずらしい、協同の大地を夢見て建設された移住地であった。開設されたのは1924年(大正13年)だが、この移住地建設に刺激され、この移住地の周辺に第二アリアンサ、第三アリアンサ、ビーラ・ノーバ(新しい村)と次々と新しい移住地が誕生し、アリアンサといえば日本移住地の中心と見られたほどだった。だが、皮肉なことにアリアンサの成功は移住ブームを呼び、1929年の海外移住組合法成立とともに、国策会社ブラジル拓殖組合が設立される。ブラジル拓殖は大規模な移住地建設をすすめると同時にアリアンサ周辺の移住地の経営権を次々吸収し、ついに創立14年目の1938年、アリアンサはブラジル拓殖にその経営権をゆだねることになる。

 今では当時のアリアンサをしのばせるものはもうほとんどないが、ただ一つ、アリアンサが育てた、そしていかにもアリアンサらしい農場が生き生きと活動をつづけている。弓場農場である。コムニダーデ・ユバとは弓場協同農場とでもいった意味のブラジル語だが、ブラジルではバレエ団を持つ農場として広く知られている。バレエというとどうしても華奢でデリケートなバレリーナを想像してしまうが、ユバのバレリーナたちは朝早くから日暮れまでブラジルの太陽の下で真っ黒になって働いている。そしてその舞台はサンバのリズムにのってビュンビュン汗を振りとばしながら、観客を熱狂させる。

 農業とバレエという組み合わせはわれわれ日本人にはなかなか想像がつかないのだが、バレエだけではなく、音楽、演劇、美術についても子どものときに一定の手ほどきが行われている。ユバはもともと農業のための農場というよりは、人間が人間らしくあるための生活を創造する場として、1933年(昭和8年)にアリアンサ在住の青年たちがはじめた協同農場である。この農場にはいまでも規則といったようなものはない。創立以来「祈ること、耕すこと、芸術すること」をお互いに尊重するという暗黙の了解があるだけである。そうすることに意味があればそこで生活し、なければ出ていくという、はなはだこころもとない集団だともいえる。

 「経営は一度として安定したことはない」と老人たちは笑っている。1956年には一度倒産、立ち退きを食って現在地に移動している。彼らに言わせれば、農場とか建物とかいったものはなくなっても、必要ならまたつくればよいのであって、かけがえがないのは協同で生きようとする人間の思想だという。昔から「あんな農場が長続きするわけはない」と言われつづけながらすでに70年近い歳月を生き抜き、いまでは州政府の文化省も注目する農場になっている。

 日本やサンパウロからやってきて、しばらく滞在する人が結構いるが、別に滞在費を取るわけでもなく、食事時になれば農場員も訪問者も一緒に食事をし、カフェ(軽い食事をとる休憩)には訪問者のおしゃべりに耳を傾ける。

 わたしが最初にユバを訪れたのは1978年のことだが、サンパウロの奥地にどうしてこんな集団が存在できるのか不思議でしようがなかった。

 創立リーダーの弓場勇(ゆば・いさむ)は1926年、20才の時、ブラジルにアリアンサ移住地が建設されることを知り、村長を二期もつとめた父親を説得し、兵庫県の名塩(西宮市)から一家をあげて移住した。兵庫県三田中学の剛球投手としてならした弓場は、またトルストイに傾倒する文学青年でもあった。

 アリアンサに移住した弓場は、次々移住してくる青年たちを集めて野球チームを結成。全ブラジル野球大会で1927年から3年連続で制覇する強豪チームに育て上げる。弓場は野球の合宿を通じて青年の結束を強め、村づくりの中核として青年による共同農場を発足させたのである。弓場に共鳴して農場開拓に当たった一人に国際連盟事務次長として著名だった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の甥、太田英俊がいる。太田は若くして病没したが、大正デモクラシーと呼ばれた日本の民主的なたかまりが1925年の治安維持法制定で圧殺された時期だけに、協同の移住地建設をうたったアリアンサは、新しい世界を求める青年たちにとって、あこがれの大地であった。

 日本で武者小路実篤が起こした新しき村に似ているので、ブラジル版の新しき村と呼ばれたこともあったが、弓場勇たちは閉鎖的な集団と見られることを嫌い、新しき村を名乗ることはしなかった。むしろ日本の新しき村より、北欧の小国、ラトビア移民の協同農場に関心を持っていたようである。彼らは無償労働で村の道路をひらき、施肥農業を確立するために養鶏を発展させた。

 太平洋戦争中は日本語教育の禁止、日本語新聞の廃止、居住地以外への旅行の禁止などによって、移住地の日本人はまったく暗闇の中に押し込まれてしまうが、ユバはサンパウロに鶏卵を供給することによって情報ルートを確保し、移住者たちの情報基地となった。また、戦後はブラジル日系社会を震撼させた勝ち負け騒動がまき起こるが、このときも勝ち組負け組とも、身の危険を感じるものはいっせいに安全地帯のユバに逃げ込み、肩を並べて食事をしたという。

 アリアンサの協同移住地の夢は挫折したが、ユバはその夢を受け継ぎ、アリアンサの証をいまに伝えている。


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