諫早取材記
自然をつぶせば人の心もつぶれる
(機関紙「現代座」1998年4月号より)
からからに干上がった干潟は潟土がひび割れ、まるで白い煉瓦を敷き詰めたようです。この下奥深くには、まだ冬眠中の生き物がいるのだろうか。
干潟が閉め切られなければ、わたしはここにくることもなかったでしょう。計画はずっと以前からあったのに、わたしはあまり関心を持っていませんでした。でも、ここにきてみると、やっぱり生きているときの諫早干潟を見ておけばよかったと、悔しさがこみあげてきます。
「今のうちなら、水門を開けて新鮮な海水を入れれば、干潟はよみがえるんですがねえ」
干潟を案内してくださった写真家の富永健司さんは残念そうです。干潟救済本部の前田健司さん、時津良治さんも寒風にさらされながらじっと水門を見つめていました。
わたしはまだ劇団歴三年のかけ出しですが、思いがけないいきさつで木村快さんの諫早取材に同行することになりました。諫早干潟救済本部から劇団に電話があったとき、わたしは本部勤務でしたから、その会話を横で聞きながら、あのムツゴロウと、堤防を締め切るギロチンのような鉄板が次々と落とされていく光景を思い返していました。でも、まさかそれから一ヶ月後に自分がこの諫早湾に立っていようとは夢にも思いませんでした。
年末の会議で、木村快から
「諫早のことが芝居になるかどうかは判らないけど、それより先に、今の自分のためではなく、未来の子どもたちのために一生懸命活動する人たちがいるなら、まずこの人たちと一緒に生きる努力をすべきだろう。作品になるかどうかはそれから考えればいい。ひょっとしたら、そんな人たちが求める新しい演劇の姿が見えてくるかもしれないよ」
と言われたとき、何か未来に向かってゆくイメージが広がる感じを受けました。
「わたしはワークショップのような、その人たちが感じていることを表現することを助けられるような仕事をやってみたいと思っているんですが……」
と口ごもると、即座に「じゃあ、やってみよう」と言われました。かなり、ひるむ気持ちもあったのですが、思い切って一歩踏み出す決心をしました。
そうして、わたしは長崎行きの飛行機に乗ったのです。
諫早干潟緊急救済本部といういかめしい名前の事務所は、意外にも代表の山下弘文さん宅の裏庭に建てられた小さなプレハブ事務所でした。事務局長の前田さんは去年の六月、何かしなければと諫早に飛んできて、そのままこのプレハブ事務所で寝泊まりしながら働いているとのことでした。山下さんの奥さんは過労で倒れ、寝ておられました。地元の方々の苦労は大変なものだったでしょう。
「せめて話し合いをする間だけでも潮を入れてほしいんです。干潟を殺してしまったら、もうもとには戻りませんからね」
と代表の山下さんは言います。
次の日も地元で障害者のための活動をしておられる光野さん、裁判でムツゴロウの代理訴訟をやっている原田さんたちに干潟を案内していただきました。遠く広がる日本最大の干潟が、いま姿を消していこうとしているのです。三五五〇ヘクタールの干潟を閉め切り、干潟を干拓して農地をつくるという巨大な公共事業。いったい誰のための事業なんだろうか。なぜ日本の公共事業は動き出したら止まらないのか。疑問は次から次へと湧いてきます。
干潟のそばで六十年暮らしてきたという山本さんのお話をうかがったとき
「子どものころから干潟で遊んでましたからね。昔は晩のおかずにムツゴロウとかタイラギ(貝)を採りに行ったものです。自然を潰してしまうと、人間の心も潰れるでしょう」
と言われた言葉が忘れられません。
わたしは現代座に入団するまで、北海道に生まれ育ちました。アイヌにとってかけがえのない二風谷にダム建設の計画がもちあがり、子ども心におかしいと感じることは何度もありました。しかし、わたしは大人になると上京しました。
諫早湾が閉め切られてから一年が経過しようとしていますが、周りの関心は薄れてきているようです。そんな状況の中で一生懸命活動している人たちは、わたしたちが劇団の人間だと判ると、「みんなが共感してくれる演劇ができたらいいな」と言ってくれます。ほんとうにそんな場がつくっていけたら、親しんだ故郷からは離れて生きる自分にも、自然と共に生きていく道を選べるのではないかと思いました。
(記・卜部美佳子)
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