HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

ユバ・バレエの背景

木村快

 ユバ・バレエとの出会い

 わたしがはじめてユバ・バレエ、実はユバ農場の人々と出会ったのは一九七八年、サンパウロ市のコチア・アスレチック・クラブという体育館で開かれた日本の大臣歓迎集会でのことである。

 集会が立食パーティに移るといつの間にか舞台設営作業がはじまっていた。幕や照明器具が次々と吊られて行く。作業員は大声をたてるでもなく、かといってことさら声を殺すでもなく、実になにげなく新しい空間を創りあげて行く。それは不思議な光景であった。わたしも長年演劇の仕事にたずさわっている。殺風景な体育館を短時間のうちに劇場空間にする仕事は、かなり熟練したチームでも殺気立つものである。だが、彼らの仕事ぶりは玄人とも思われず、ただ何か明るいリズムにのってよどむことなく、楽しげに動いているように見える。それはシステムや技術の問題とはまったく次元の異なる、この人たちの生活の仕方にかかわっているような気がした。

 舞台の幕が開いて驚いたのは、登場する踊り手や俳優たちはなんと裏方の作業員だとばかり思っていた先ほどの人たちだったことである。開拓をテーマにした構成劇では本物の丸太に斧を打ちこんで木っ端を飛ばし、あるいは大きな唐箕(とうみ)でコーヒーの実を空中高くはね上げながら全身で合唱する。
 踊りは若い女性を中心にしたきびきびした群舞で、全身から汗をふり飛ばして踊りまくる。特にサンバの早いリズムにのって踊る場面は何といってもブラジルの大地で生まれ育った体力とリズム感がなければ不可能だと思われた。生き生きとした表情と激しい動きで二時間近く踊りまくる。観客は興奮して幾度も歓声を上げ、大きな拍手を送っていた。それはわたしの知っているバレエのイメージとはまったく異ったもので、まさに生産活動の中でしか生まれ得ない、強烈な強さと明るさを持っている。もし人間の自由とか解放といったものを形にするとこんな形になるのだろうかとも思った。

 さらに終演後の舞台撤去作業を見ていて驚いたのは、ほとんどが二世、三世と思われるのに、彼ら同士の会話が完全な日本語だったことである。つまりこの人々は日本語が風化していない環境で暮らしているということである。ブラジルではすでに日本語環境は消滅しているはずだとするわたしの常識は、根底からくつがえされてしまった。
 どうしてサンパウロから六百キロも離れた奥地にこのようなバレエ団が存在するのか。どうしてこれほど高度な技術とアンサンブルを身につけることが出来るのか。どうして日本語環境が残っているのか。この人々はどうしてこれほど自由なのか。

 アリアンサ文化の特色

 ユバ農場が生まれたアリアンサ移住地は、一九二四(大正一三)年、キリスト教系の団体、日本力行会によって開設されている。開設の中心になったのはアメリカ移住の体験を持つ力行会長の永田稠(ながた・しげし)であり、移住地建設プランをつくったのはブラジル側で邦字新聞の記者として日本移民の悲惨な現状を見つめていた輪湖俊午郎(わこ・しゅんごろう)である。この移住地は移住者の自治を基本とした村づくりを理念としてかかげ、民間の運動によって資金を集めて建設された点でも移住史上唯一のものである。国や大企業に頼らない国際的事業として、いわばNGOの先駆でもあった。

 アリアンサという言葉は一般に国家や組織の連合・盟約を意味する語として訳されるが、ブラジルでは結婚指輪のこともアリアンサと呼んでいる。永田稠は「一致・協力・和合」という意味で命名したと書いているが、たしかに規約などを見るとこの移住地は当初から組合方式による自治運営を目指しており、今日で言う「協同」への願望がこめられていたと思われる。また、当時は集団居住地を「植民地」と呼んでいたが、移住者の側からの「移住地」という名称を使ったのはアリアンサ移住地が初めてである。

 当時の日本の移住政策は出稼ぎ労働者を送り出すだけで、送りこんだ以後は一切放置する棄民政策であったため、永田と輪湖は、子どもの教育をはじめとする生活文化を確立するには移住者自らが移住拠点をつくらねばならぬと考えた。だが、グローバル化された現代と違って、当時は民間の運動で外国に移住地をつくるなどということは簡単ではない。

 そこで、長野県出身の永田は長野県に働きかけて信濃海外協会を組織し、信濃海外協会の事業という形でアリアンサ移住地を建設することになる。このため長野県がつくった長野県人中心の移住地と誤解されがちだが、実際の移住地建設および資金の調達はほとんど永田稠と日本力行会の肩にかかっていた。入植者も全国から集まり、当然クリスチャンが多い。もちろん長野県の承認なしで実現できる仕事ではなかったが、長野県が自らの意志で作った移住地だったわけではない。アリアンサの文化活動の背景には、こうした移住地建設運動があった。

 このアリアンサ移住地の成功は日本の移住世論を大きく動かした。日本政府も一九二七(昭和二)年に海外移住組合法を成立させ、ブラジルに次々と国策移住地を建設するようになる。そして、アリアンサ移住地は一九三八年に国策会社ブラジル拓殖組合の傘下に併合されたため、以後は国策移住地として扱われるようになり、アリアンサの先駆的な移住地建設運動の歴史は国策移住の蔭にかき消されてしまう。

 大正期のクリスチャン

 アリアンサは大正期のキリスト教徒が中心になって開設した点に最大の特徴がある。信濃海外協会の名で開設したにもかかわらず、入植者の出身県は全国三十二府県に及び、長野県出身者はその一九%に過ぎない。当然のこととしてクリスチャンが多く、農業経験のない中産階級の移住者が多かった。アリアンサにはその後、鳥取、富山、熊本の海外協会も移住地を開設したため、最初のアリアンサは第一アリアンサと呼ばれている。一般に日本人移住地には必ずと言ってよいほど神社と仏教寺院が建てられるが、第一アリアンサで真っ先に建てられたのはキリスト教会であり、神社建設案が出たこともあるが、住民の反対で実現することはなかった。

 アリアンサの開設は日本力行会の青年たちが主力であったから、当初からスポーツや文化活動は盛んだった。日常的に賛美歌が歌われていたことも、大正から昭和初期の日本人移住者の目からするとかなり異様な世界として映ったようだ。

 明治大正期のキリスト教が日本社会に及ぼした影響としては、宗教としての側面より日本近代の思想文化に大きな影響を与えた点を重視する必要がある。教育界における新島襄、新渡戸稲造をはじめ、社会主義運動の先駆として知られる安部磯雄や片山潜、大正デモクラシーの思想家吉野作造、日本農民組合を起こした賀川豊彦や杉山元治郎らはキリスト教徒であった。労働運動の草分けである日本労働総同盟も東京のユニテリアン協会ではじまった鈴木文治の友愛会から発展したものである。日本力行会も東北学院の前身仙台神学舎出身の島貫兵太夫が一八九七(明治三〇)年、東京神田に「苦学生救済会」を開設したのが始まりである。日本力行会はキリスト教関係のネットワークを通して、向学心のある青年をアメリカに送り出す組織として知られ、大正時代にはカナダ、アメリカをはじめ、中南米各国に支部を持つ海外事情に明るい組織でもあった。

 アリアンサには永住を目的とした知識層の移住者が多く、当初から俳句や短歌など短詩文学の活動が盛んで、短歌ではアララギ派門下の岩波菊治、俳句ではホトトギス派の木村圭石、同じくホトトギス派で高浜虚子の愛弟子だった佐藤念腹らが移住している。ブラジル日系社会で最初の短歌俳句雑誌「おかぼ」が創刊されたのは一九三〇年代初頭のアリアンサにおいてであった。ブラジルの日系文化を考えるとき、アリアンサは無視できない移住地である。

 スポーツの面では野球が盛んで、サンパウロの野球大会ではアリアンサ・チームが都会の強豪チームを押さえ、一九二七年から三回連続で優勝している。そして、この強豪チームを創り上げたのが後のユバ農場リーダーである弓場勇であった。弓場勇は野球の神様と呼ばれ、ブラジル野球界の伝説的存在として語り継がれている。一九二八年のアリアンサ・チームでは新宿中村屋の四男相馬文雄がライトを守っている。新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻もまたクリスチャンであり、大正期の無名芸術家を支援するパトロンとしても知られているが、日本力行会の熱心な支援者でもあった。

 青年たちの協同農場

若き日の弓場勇  アリアンサ文化をもっとも純粋な形で体現しようとしたのが、弓場勇らによるユバ農場である。ユバ農場はアリアンサ野球チームの合宿から誕生した。

 弓場勇は兵庫県名塩(西宮市)で村長を二期務めた弓場為之助一家の長男として一九二六(大正十五)年、十九才の時に移住している。村長経験者である父親を説得して一家移住を実現したと言うから、若い頃から並はずれた説得力を持っていたと思われる。弓場は三田中学時代から、関西球界では剛速球投手として知られた逸材であった。アリアンサに入植すると早速青年を集めて野球チームを結成している。

 弓場勇がブラジル移住を決意したのはジャン・ジャック・ルソーの「エミール」を読んだことからだという。これは孤児エミールの成長を通じて、自然の歩みに従う教育のあり方を論じた教育論だが、「自然に帰れ!」というルソーの言葉はやがて「大自然の中で新しい文化の創造を」という弓場生涯の思想となった。弓場はまた熱心なトルストイ文学の読者でもあり、「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ感動から協同農場を志向しはじめたと言われている。アリアンサへは農業用具と共に野球用具とトルストイ全集、移住の途中、香港で購入したドイツ製の乾板式カメラを持ち込んでいる。娯楽の少ない開拓地で、若者たちは野球の合宿を通じて、トルストイを語り合いながら、協同農場の夢を培っていったようだ。

 協同農場の取り組みは一九三三(昭和八)年頃から第三アリアンサで土地を借りて挑戦していたが、一九三四(昭和九)年に一〇〇ヘクタールの土地を共同購入し、本格的な農場を開設する。アリアンサ移住地の設計者であった輪湖俊午郎や、アメリカから再移住した長老格の瀬下登も熱心に支援している。

 農場は「祈ること、耕すこと、芸術すること」を理念とし、農場員を拘束する規約はいっさい作らなかった。入りたい者は誰でも入れたし、出て行きたい者を止めることもしなかった。いかなる理由からであれ、働かないことを咎められることもなかった。現代日本の価値観からするときわめて非現実的な集団と思われるだろうが、この農場が激動期のブラジルで六十六年を生き抜き、すでに三世の時代に移りながらもユバ・バレエが多くのブラジル人に愛されていることは否定しようのない事実である。芸術による人格の解放が農を支えているのである。

 ユバ農場は創設当初から日本における武者小路実篤の提唱した「新しき村」と比較され、多くの人々の注目を集めてきた。創設者たちは形で比較されることを嫌ったが、「祈り、耕し、芸術する」がトルストイの農民主義への共感からであったことは事実で、その点では武者小路実篤とも共通する大正期の社会主義的・人道主義的思想が土台になっている。

 「祈る」という言葉が使われているため、現代の日本人は宗教的と考えるかもしれないが、現代人の感覚からすれば「感謝」を表す言葉として理解する方が妥当だろう。アリアンサはクリスチャンが中心になって開設された移住地であるため、「祈る」という言葉はごく一般的な生活感覚として使われていた。

 創設者たちの横顔

創設者たち(撮影・弓場勇)
後列左から:佐藤啓、弓場稔、浜村利一、望月数太郎、弓場寛、志保沢了
前列左から:太田秀敏、斉藤昇
撮影・弓場勇

 上の写真は農場開設時に弓場勇が撮影したもので、「昭和十年(一九三五年)、弓場農場開拓同志の写真」とメモしてある。この時弓場勇は二八才である。
 前列左から、太田秀俊(二一才)は青森県出身、五千円札の肖像に使われている新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の甥である。新渡戸稲造は日本力行会の顧問であったから、その縁でアリアンサへ入植したものと思われる。太田は農場開設の一年後、黄熱病で夭折している。斉藤昇(二六才)は茨城県出身、東京外国語学校(現・外語大)スペイン語科を出て、移民監督の秘書をしていたが、アリアンサを知り、一転して農業生活に転向、アリアンサで生涯を閉じている。
 後列左から、佐藤啓(二六才)は北海道出身、アンデスの山に憧れ、アリアンサ在住の兄の家に立ち寄ったのが縁で弓場勇と意気投合する。弓場稔は弓場家の次男、温厚な性格が仲間の信頼を集めたという。浜村利一(二六才)は山口県下関商業出身、農場開設に先立って三菱の東山農場で会計の仕事を学び、終生弓場の補佐役に徹した。望月数太郎(二六才)は鳥取県出身、アリアンサ・チームの一塁手で四番バッター、熱烈な浅草オペラのファンで、畑仕事をしながら大声でオペラのアリアを歌っていたという。弓場寛(一九才)は弓場家の四男、当時もっとも先進的と言われたレトニア人(ラトビア人)のパルマ協同農場に研修に行っている。志保沢了(二六才)は明治大学出身、バス会社社長の息子でありながらアリアンサに憧れて渡伯、野球チームのメンバー。

 やがてこの農場は村づくりの中核になって行く。ユバ農場を中心にブラジル最初の産業青年連盟が組織され、無償で移住地道路の造成に取り組み、さらに移住地農業を収奪農業から日本人らしい施肥農業へと転換させるため、ブラジル最大の養鶏場を建設して鶏糞による土壌改良を進める先頭に立った。

 農場に残る写真を見ていると、もう五十年も前から子どもたちがピアノのレッスンを受けたり、絵画の指導を受けたりしていることがわかる。芸術活動を特殊なものと考えず、働くことと同様、人間の自然な営みの一部として貫いてきた姿勢がうかがえる。

 クリスマスが来るとユバ農場は移住地全体の劇場となる。この日は、その一年間の農場生活における器楽や合唱、バレエ、絵画など、文化活動の成果を発表する日でもある。美術家として著名な半田知雄や高岡由也、後に世界的画家として知られた間部マナブらがサンパウロ市から駆けつけて、クリスマスの舞台装置制作に協力している写真もある。戦後はいちはやく映画館並の三五ミリ映写機を二台備え付け、週に一度はサンパウロ市から日本映画のフィルムを借りてきて、村人のために上映会を開催している。
 サンパウロ市から西北に向かう幹線道路マレシャル・ロンドンを六百キロ走ると、トレーボ・イサム・ユバというインターチェンジがある。ここがアリアンサ移住地への入り口である。


Back home