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輪湖俊午郎の消えた足跡をたどる

木村 快

 輪湖俊午郎については一九九六年にパウリスタ新聞社が編纂した「日本ブラジル交流辞典」に、次のような紹介が載っている。

輪湖俊午郎輪湖俊午郎(わこ しゅんごろう)
 一八九〇(明治二三年)年六月〜一九六五(昭和四〇)年九月。サンパウロ州アリアンサ。ジャーナリスト。移植民貢献者。
 長野県南安曇郡出身。松本中学卒業。一九〇六(明治三九)年、英文学の研究のため渡米。新聞(「ロッキー時報」)記者などを経験。一九一三(大正二)年、カリフォルニア州議会で排日法案が通過したことに憤慨し、ブラジルに移住。
 一九一六(大正五)年、金子保三郎とともに「日伯新聞」を創刊。翌年、「伯剌西爾時報」の創刊に際し、編集長として同社入社(一九二〇年退社)。
 一九二一(大正一〇)年、一時帰国し、日本力行会会長永田稠と「信濃海外協会」の創立に奔走する。アリアンサ移住地建設(一九二四年)に当たっては、現地理事をつとめ、その土地の選定、購入、指導にあたった。その後、バストス移住地、トレスバラス移住地、チエテ移住地の選定、購入に参画した。さらに、アルモニア学生寮建設にあたっては、主導的責任を果たす。奥地の二世のため、ブラジル4H協会を組織し、その運動に尽力する。在伯中に、四回訪日し、日本でも活動。
 著書には「北西年鑑」、「バウルー管内の邦人」、「流転の跡」などがある。よく知られる「ブラジルにおける日本人発展史」の約三分の二は彼の執筆によるものである。一九六五(昭和四〇年)、日本国より勲五等瑞宝章を受ける。

 この紹介を多少補足すると、出身地は長野県梓村(現在の梓川村)であり、松本中学(現・深志高)卒業ではなく、三年終了時、一五歳と六ヶ月で単身アメリカへ渡っている。渡航目的は英文学研究のためとなっている。なお、日本政府による勲章授与は没後のものである。

 アメリカではユタ州、ワイオミング州といった中西部の鉱山や鉄道敷設工事で働いている。ブラジルに転住する前はユタ州ソートレークで邦字新聞ロッキー時報の記者をしていた。

 輪湖がブラジルへの転住を決意したのはアメリカにおける日本移民排斥をつぶさに体験したことによるが、母国の支援を失った移民の悲惨さ、とりわけ移住先での子弟教育がいかに困難であるかを痛感したようである。彼の生涯は一貫して定着移住思想の普及、自治による移住地建設、二世に対する教育支援で貫かれている。

 ブラジルに転住すると金子保三郎と組んで、移民の目と耳になるべき新聞「日伯新聞」を創刊、次いで移民組合が創設した新聞「伯剌西爾(ぶらじる)時報」の初代編集長に迎えられるが、移住政策に対する考え方の違いで退社。その後日本に帰国して、永田稠と信濃海外協会の設立、アリアンサ移住地の建設へと転身。

 言論人としての輪湖はブラジル日系社会最初の移住者実態調査といわれる「のろえすて(北西)年鑑」(一九二五年)、世界大戦の不安が高まる一九三〇年代後半には帰国か永住かで揺れる移住者の実態をまとめた「バウルー管内の邦人」(一九三九年)など、当時のブラジル移住者の実状を知る上では欠かせない名著がある。一九四〇(昭和一五)年には青柳郁太郎を編纂委員長とする「ブラジルに於ける日本人発展史」(一九四一年、上下二巻八〇〇頁)の編纂に参画するため帰国している。一九四一年、太平洋戦争の始まる直前に最後の船でブラジルへ帰るが、開戦と同時に第五列容疑で逮捕され、十一ヶ月間の獄中生活を送っている。
 第五列容疑とは、一九三六年のスペイン内乱の際、共和国軍が立てこもるマドリッドを反乱軍のフランコ将軍が四個部隊で包囲するが、共和国軍の中にも反乱に呼応する第五の部隊がいるとデマを流し、共和国軍の動揺を誘ったことから、敵の中に紛れ込んで諜報や内部攪乱を行う部隊やスパイのことを「第五列」と言う。

 言論人としては広く知られる輪湖俊午郎だが、なぜか海外移住組合連合会のブラジル側理事として、ブラジル拓植組合の設立や国策移住地の選定、開設に当たったことはほとんど知られていない。それぞれの移住地史にも、一九九七年に発行された「ブラジル日本移民八〇年史」にもいっさい出てこない、。輪湖がバストスなど国策移住地の選定、購入に参画したという紹介は一九九六年に刊行された上記「日本ブラジル交流辞典」が初めてだと思われる。だが、ここでもブラジル拓植組合設立にかかわった理事としての紹介はない。

 海外移住組合連合会とは昭和二年に施行された海外移住組合法によって設立された組織であり、この法律によって戦前移住者の七割にあたる一三万人以上がブラジルに送り出されている。日系ブラジル人とは日本政府の政策によって生みだされた人々であるという根拠を示す資料が消されてしまっているのである。

 輪湖がブラ拓理事として国策移住地建設にかかわったのは昭和三年から六年にかけてだが、昭和六年の連合会総会で突然幹部の交代が行われている。簡単に言うと、輪湖がかかわった時期の移住地政策は否定され、海外移住組合連合会は軍と結びつき、満州移住と戦略物資調達の機関に変貌していく。この間の経過を示す資料が日本側にも、ブラジル側にも見あたらない。
 そのため日本近代史では、国策であったブラジル移住や満州移住については年表に記載されることもなく、教科書にのることもなく、歴史の闇に消えつつある。
 輪湖は最後の最後まで「本当の移住史を書き残さなくては」と言い続けていたと言う。


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