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箕輪新七さん 箕輪新七さん(みのわ・しんしち)

一九一二(大正元)年、長野県佐久市で生まれる。一九三〇年、日本力行会員としてアリアンサの日本力行会南米農業練習所に入る。一九三二年、アリアンサ産業組合職員となる。一九三九年から一九五三年までユバ農場に参加。一九五三年からパラナ州ロンドリーナ市に移り、農業を営む。一九九八年一一月六日没。享年八六歳。

アリアンサ時代の輪湖さん
 一九三一年に力行会の練習所を出てから、しばらく瀬下さんのお宅に厄介になっていました。そのころ、アリアンサの青年たちの間ではアマゾン熱が盛んで、わたしもアマゾンに行きたいと思っていました。ちょうど、日本の連合会の役員が総入れ替えになって、ブラ拓の方針も変わり、アリアンサが揺れていた頃です。
 アリアンサの立て直しで日本から永田会長がこられて、アリアンサ産業組合ができることになり、瀬下さんが理事長になられました。瀬下さんからアマゾンなんかやめて産業組合を手伝えと言われて、わたしは産業組合で働くことになりました。まだ二十二、三の若造ですから、えらい人と口をきくのがおっくうでしたが、輪湖さんだけはわれわれ独身者の部屋へひょいと顔を出しては、われわれと一緒に手料理をつまみながら、いろいろ話をしてくれたものです。
 輪湖さんという人は本当に座談の名人でしたね。ご自分の北米時代の体験やアリアンサをつくるときの苦労話をおもしろおかしく語られるのです。なにしろ建設初期で何の楽しみもない頃ですからね、われわれ若い者は輪湖さんの話を本当に楽しみにしていました。だから、輪湖さんがアリアンサの理事を辞められてチエテへ移られるときは、みんながっかりしていました。
 一九三七年頃、アリアンサの診療所の問題が紛糾したことがあります。このときも輪湖さんが駆けつけてきて、みんなを説得して無事に納まったことがあります。

 輪湖さんの夢
わたしがロンドリーナに移った翌年でしたから一九五四年頃だと思います。突然輪湖さんが訪ねてこられて、どんな風に暮らしているのか気になったので寄ってみたのだと言われ、感激しました。  そのとき、今度セッテケーラスの滝の近くに全く霜害のない場所があるので、そこへ移住地をつくるつもりだから、そのうち余力ができたら手を貸してくれと言われました。それはパラナ州の奥の方で、ちょうどそこへ行く途中、寄り道したのだとのことでした。  もう六十代半ばになっておられたわけですが、何とか土と水に恵まれた新しい移住地をつくりたいのだと言っておられました。ところが、その翌年(一九五五年)に大霜がありましてね、さすがにその予定地も霜にやられて、断念されたようです。  ブラジルでは拓人という言葉が最高の賞賛ですが、輪湖さんという人こそほんとうの拓人でしょうね。それはただ原始林を拓くということだけでなく、アルモニア学生寮の建設を指導されたこともそうだけど、移住者のための道を拓くために生まれてきたような人ですね。

*アリアンサ中央公園には、永田稠、北原地価造の碑があり、アリアンサにゆかりのある人の歌碑や句碑が建ち並んでいる。だが、どういうわけか輪湖俊午郎のものだけはなかった。
 一九九六年六月、輪湖俊午郎にかかわった人々の募金によって輪湖俊午郎頌徳碑が建てられた。箕輪新七さんは書家としても知られ、この碑文は箕輪さんの書によって刻まれている。

一九九七年十月二十六日サンパウロ市のホテルで


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