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輪湖譲二さん 輪湖譲二さん (わこ・じょうじ)

 譲二さんは輪湖俊午郎の長男。一九二三年、父俊午郎が信濃海外協会を設立後、ブラジルに戻って滞在していたセッテ・バラス植民地で生まれ、アリアンサ移住地、チエテ移住地で育つ。当時、知識人の子弟はサンパウロ市で勉学するのが普通だったが、移住地で育ち、移住地に尽くすという父親の方針で、次男彰さん、三男光明さんとも、チエテ移住地で輪湖家の手伝いをしていた横山治さんから日本語教育を受ける。三人とも移住地(現ペレイラバレット市)に在住し、譲二さんは印刷業、彰さんは農機具商、光昭さんは農業を営む。
譲二さんは二〇〇三年四月四日没。享年八十歳。

 父が第五列容疑で収監された頃
 ぼくは十八歳のとき(一九四〇年)、志願でサンパウロ市の義勇軍に入隊した。志願で義勇軍に入隊しておくと、兵役義務が免除されるということがあったのと、当時は日系人は自由に動けない時代だからね、だけど軍服を着ていれば自由に動き回れたんだ。だからブラ拓の連絡や資金運搬はみんなぼくがやった。訓練は夜だけだった。昼間は学校へ行く者、働く者といろいろで、同年兵に日系人が七十名いた。特にバストス(移住地)の出身者が多かった。
 まもなく戦争が始まって、各植民地の指導者クラスがぞくぞくと収容所に収監された。当然、親父も収監された。たいていの人は数週間で釈放されたけど、親父は十一ヶ月間入れられてた。
 紀元二千六百年祭で日本に帰国した時、ブラジル移民代表として慰問品を持って満蒙の視察に出かけたんですよ。そのときはなんでも左官待遇(軍人の大佐と同等の待遇)ということだったらしくて、陸軍大佐の軍服を着た写真があったんだ。ブラジルの警察が家宅捜索に来たときそれが見つかって、これが第五列(敵国通報者)容疑の根拠になったらしいんだ。しかし、ほとんど取り調べは行われなかったらしい。
 収容されたのは昔移民収容所だったところです。当時の日本人はブラジル食になじまないものだから、脚気が増えてきてね。それで(カソリック教会の)渡辺マルガリーダ(尼僧)が司教にかけあって政府を動かして、一週間に二回だけ日本食を差し入れできるようにした。それで、ぼくが軍服を着て車を運転することになった。だから収容所の出入りはぼくが書類にサイン(署名)をしていた。その関係でコマンダンテ(警備)の大佐と話す機会も多かったが、大佐は日本人に同情的だったね。「オッセら(君たち)は可哀そうだなあ。戦争というものはほんとうにみじめなものだ」って。そして、いろいろ便宜をはかってくれた。
 収容所に行くと一時間ばかりは内部の人間と話すことができた。収容所の中では、自分の家族を思って泣いている人間もいるし、コロニア(日本人社会)のことを憂えている人間もいる。仏教の坊主でデンと構えている立派な人物もいた。人間というものは最後のどたん場に追い込まれてみて、はじめてその人の人格が見えてくるものだと親父は言っていた。親父は白と黒のカフスボタンでパチリ、パチリ碁を打っていた。

 この移住地で死ぬ
 ブラ拓から手を引いて、ここ(チエテ)へ移住したころは、夜、「なんでこんな不健康地に移民を入れたのだ」とどなりこんでくる人が多かった。初期にはマレータ(マラリア)が出てたからね。
 ブラ拓関係者からは、「輪湖さん、小さい子どもを抱えて、なぜそんなところで暮らすんですか。子どもの教育のこともあるのだから、サンパウロでブラ拓の仕事をしてはどうですか」と勧められたが、がんとして聞かなかった。親父は、自分はここに千二百人の植民者を入れた責任者なのだから、どんなことがあってもここから動かない。このチエテで死ぬんだと言い張った。そして、本当にここで死んだ。

消えた「移民五十年史」
 親父が死んだのは一九六五年だが、その頃はもうぼくらが育った家はチエテ・ダムに沈むことになっていた。死ぬ少し前、親父はここから動かないと頑張っていたが、体が弱ってきたので無理矢理この家に連れてきた。ここへ移ると、親父はすぐ光明(三男)にペンとインクを買ってくるように言った。「おれは本当の移住史を書かなくてはならんのだ」と言ってね。それは上下二巻で、二年半かかるんだと言っていた。結局はできなかったがね。
 戦前に、親父は日本に呼ばれて「ブラジルに於ける日本人発展史(一九四一年)」を書いたが、あの当時はなかなか書けなかったことがあるらしい。戦後、移民五十周年(一九五八年)の時、親父は中尾熊喜さん(移民五十年祭典副委員長)に頼まれて、サンパウロへ出て「移民五十年史」を書いている。だが、なぜか出版されなかった。原稿もどこへ行ったかわからなくなったようだ。それが心残りだったんだろう。
 ぼくは二十歳の時から、親父に教わりながら、ここ(チエテ移住地・現ペレイラ・バレット市)で印刷屋を始めた。もちろんポルトゲース(ポルトガル語)です。親父は若い頃から印刷には縁があって、自分の本を出す時にも新聞社へ行って自分で活字を拾ったりしていたし、一時はブラジルの新聞社で製版をやっていたこともある。どこで覚えたのかはわからない。
 親父の夢は、いつか日本から活字を輸入して、日本語の本を印刷することだったね。自分で移民史を出すつもりだったのかもしれない。

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