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新しいコムニダーデ・ユバ

慰霊祭  ブラジルのコムニダーデ・ユバ(ユバ協同農場)の二代目代表弓場哲彦さんが二〇〇三年九月二十六日に亡くなられました。すでに一月には長老の箕輪謹助さんが亡くなられ、ユバ農場は、いま大きな転換期を迎えようとしています。
 ユバ農場は一九三四年に弓場勇をリーダーとしてアリアンサ移住地の青年協同農場として誕生しました。戦前からブラジルの「新しき村」と呼ばれ、一九二七年に武者小路実篤の提唱で始まった日本の「新しき村」と比べられることが多く、またそうした一九二〇年代から30年代(日本の大正期から昭和初期)にかけての日本人の理想主義が、果たして現実の歴史に耐えられるものかどうかでも注目されてきました。
 第二次大戦中の日本移民は母国からの保護を失い、敵性国民として六年余にわたって、日本語教育の禁止、集会の禁止などで母国文化の継承は致命的な打撃を受けています。
このため、世界各国からの移民で成り立つ多文化社会のブラジルにあって、一四〇万人と言われる日系人は、他国系の移民に比べて母国語、母国文化を継承する上で様々な問題を抱えています。
 こうした過酷な歴史をたどった日系移民の中にあって、ユバ農場は唯一母国語と母国文化を継承しつづけ、さらに戦後はユバの理想に共鳴して農場に加わった小原明子さんの指導によってユバ・バレエが全国的な注目を浴びるようになり、今では日系人のシンボルとなっています。

 わたしは十一月から十二月にかけて、三年ぶりで墓参をかねてユバ農場を訪問してきました。ユバはサンパウロの奥地にあるため、サンパウロ市でもユバはどうなっているのかと心配する声が多く、とり急ぎわたしの見たままのユバの実情をお知らせすることにしました。こうした機会が少しでも日系ブラジル人の素顔を知っていただくことになればと願っています。

2003年12月  木村 快


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