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2004年11月15日 アリアンサ移住地入植八〇周年記念式典にて
田中康夫長野県知事の挨拶

(文章化・ユバ農場 矢崎正勝)

アリアンサ移住地入植80周年記念式典で挨拶する田中康夫長野県知事。  どうも皆さまこんにちは。わたしは長野県、信州信濃で県知事をしております田中康夫です。今日、皆さんにこのようにお目にかかれることができて、うれしく、また光栄に思っております。
 皆さんはご存じかもしれませんが、わたしは四年前に県知事になりました。それまでは文章を書くフリーの仕事をしておりました。そのわたしにとって、先ほど、弓場勇さんが創設されたユバ農場を訪れたときに、何かそこには大変神々しいミッションがある、使命感というものがある、また祈るということがある、そしてそこに文化というものがあると、わたしは深い感銘を受けました。

 先ほど、下桑谷浩牧師から大変心温まるお説教をちょうだいしましたが、そこでもわたしはアリアンサの地に、皆さん、人が人として生きる、人を人として遇するという高いミッション、使命を持った方々が集っていると感じました。そしてそのことはまさに21世紀になりまして物質的には豊かになりましたが、精神的にはきわめて荒廃している日本という地を、わたしたちが改めていく上での参考となるものが、数多くこのアリアンサの地にあるのではないかと、そのように感じています。

 先ほど下桑谷牧師が脱ダム宣言というものをご紹介してくださいました。わたしは富国強兵型の政治ではなく、少しむずかしいですが、経世済民(けいせいさいみん)、経世済民とは福祉や教育や環境というものを大事にすることによって‥‥、福祉や教育は皆さんご存じのように、人が人をお世話をしてはじめて成り立ちます。福祉や教育はロボットでは行うことはできません。そしてこのことが21世紀における、福祉や教育や環境、森林を整備することを含めて、これらがよい意味で新しい雇用を生んで行く。これを富国強兵型、組織や国家のためではなく一人一人の市民のために尽くす経世済民の政治だとわたしは感じております。

 わたしの胸に付いておりますのはカモシカ・ヤッシーと言いまして、これは信州信濃の県の動物がカモシカです。わたしの名前が康夫なのでヤッシーという名前が付いています。なぜこれを付けているかと言いますと、わたしは四年前の選挙も、そしてご存じのように二年間で不信任を出され、ダムを造らないのはおかしい、ダムを造っていかないといけないと言われて不信任を出され、そのときにも再び選挙を行いましたが、わたしは日本のいかなる政党からも推薦や支持を受けていません。のみならず農業の団体や、医師の団体や福祉の団体や建設の団体や、あるいは労働の団体からも推薦も支持も受けていません。お前に人徳がないからだと言う人もいますが、わたしは組織のために働くのではなく、一人一人の自立した市民のために働くということをわたしのミッションとしています。

 このアプリケは八年前、お子さんを生むときに身体が全身不随になってしまった、松本の南の塩尻市というところに暮らす女性がつくってくれたものです。彼女が四年間リハビリをして少しずつ手が動くようになる間に、彼女のご主人も事故で片腕をなくしてしまいました。でも、そうした方がわたしと共に、長野県を再び良くしていこうと思ってくれています。そうした方と共にあるという覚悟でこのバッジを付けています。

 わたしの大変尊敬する、この方は白血病で亡くなりましたが、わたしの兄貴分でもありましたエドワード・サイードという、歴史学者であり、哲学者であり、政治学者がいます。彼はオリエンタリズムを批判した人です。オリエンタリズムというのは西洋が東洋を指すときに言う言葉です。つまり西洋なるアイデンティティの方が優れていて、それをうらやましく思っているのが東洋というところのオリエンタリズムだということを彼は述べております。でも、こうした考え方こそがまさに植民地主義や人種主義というものを正当化していくものであると、彼は非常に嘆いていたわけであります。

 先ほど田中嗣郎会長からは、わたしたち長野県、信州信濃というものがこのアリアンサの地にも多大なる貢献をしたという身に余る言葉をいただきました。身に余る言葉かもしれませんが、わたしはむしろ、わたしたち長野県は、あるいは長野県民は、正しい歴史を見つめ直さねばならないと思っています。

 今回ブラジルの地に訪れたのは、わたしは日本を見つめ、あるいは長野県を見直す旅であると思っています。なぜならば、ご存じのように、永田稠さんやあるいは輪湖俊午郎さんたちがこの地に新しいミッションを持って、人々のための楽園を作ろうとしたときに、必ずしもわたしたち長野県はそれに全面的な協力をしたとは言い難い歴史の事実があるからです。
 わたしは木村快さんの書籍を読み、あらためてそのことは深く反省しなければならないと思っております。それはすなわち、このアリアンサの地には自治会があり、あるいは神社がない。

 編者註・アリアンサ移住地は皇国思想に基づく信濃教育会が中心になって建設したとする山川出版社「長野県の歴史」、大月書店「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」の見解に対して、アリアンサは大正デモクラシーの影響を受けた日本力行会が中心になって建設した移住地であり、運営も自治会によるものであったと反論した部分をさす。

 そして多くの方は長野県民ではなく、この場所に人間らしい楽園をつくろうと思った方々を分け隔てなく受け入れるという大変広い心のミッションがあった場所である。しかしながらそうした場所に、わたしたちの県はきわめて後ろ向きな支援や対応しかしてこなかったのではないかという、わたしはあえて深い反省を持っております。

 このアリアンサの地は国策としての移住ではなく、まさに人々の、むろん苛酷な日本の歴史があり、日本での困苦を極めた生活があり、その中で楽天地を求めたという要素はあるにせよ、この場所に国から命じられたのではなく、広い意味で、個人の意志と覚悟によって人々が移り住んだ。わたしはこのことに深い敬意を表するものであります。

 いくつかの書籍は、山川出版や大月書店や、あるいはそのほかから出ているこのアリアンサの歴史というものは、ことさらに長野県の指導のもとに、庇護のもとに形づくられたかのように記されています。けれどもわたしは、これは必ずしも正確な認識ではなかろうと思っています。
 つまり、そこにも記されているように、タテマエとしては皆さまが入植されることに賛成する、しかしながらお金は出さない、そして日本力行会の方々のミッションにもとづく活動に任せきりにして、皆さまの多大な労苦の上においてすばらしい楽園が築かれてきたときに、それがあたかも長野県のもたらした成果であるかのように述べ、満州移民という国策移民を行う上においての成功例であるかのように述べたということは、わたしはあらためて検証せねばならないことだと思っております。

 編者註・前註同様、アリアンサ移住地は長野県知事を総裁とし、信濃教育会長を副総裁とする信濃海外協会の名において建設されているが、実際は日本力行会によるものであり、長野県も信濃教育会も実質的な協力をしていない事実をさす。

 すなわち信濃教育会をはじめとする長野県は、さきほどエドワード・サイードが述べたオリエンタリズム的な発想、このアリアンサの方々の努力を正確に見ることなく、まさに国策的なその後につづく正当化する手段として用いたのではないか。それこそはわたしたちが正確に歴史を見つめ直さねばならない、わたしたちの克服せねばならないもう一つのオリエンタリズムではなかろうかと思います。
 この点は優れた、まさに長野県にとどまらない言論活動をつづける信濃毎日の宮坂重幸記者をはじめとする方々の力を借りて、わたしたちは近い将来において、アリアンサのために、あるいは長野県が再びあやまたぬように、このことをきちんと記し直さなければならないと思っております。

ユバ農場にて。 それにつけましても皆さまの、まさに一人一人が人として生きるということをつづけてこられたという点に、わたしはあらためて深い敬意を表するものであります。
 先ほど、エドワード・サイードはこうした言葉を述べております。少しむづかしく感じられるかもしれませんが、「ノン・ジューイッシュ・ジュー」という言葉と「ジューイッシュ・ノン・ジュー」という言葉があります。ユダヤの方々はある意味では、定住する場所が長い間なかった方々です。けれども定住する場所がないからこそ、カール・マルクスもフロイトも、「わたしは世界市民である。わたしのからだはまちがいなくジューイッシュ(ユダヤ人)であるけれど、わたしは定住する場所がない。アイデンティティを保つ場所が希薄であるからこそ、自分のその優れた頭脳を世界のために使う。まさに、肉体はジューイッシュなれど、精神はノン・ジューイッシュ、世界市民である」ということを述べました。

 しかしながら、今のわたしたちの世の中はどうでしょう。ユダヤ人ということだけでなく、多くの人々が、アメリカ人もあるいは日本人も、わたしは国籍を超えた世界市民であると言う人もいます。けれどそう述べる人に限って、自己的な、利己的なものを求める。まさに、肉体は世界市民といいながら、欲望はきわめて自分の狭い範囲を見るという形があります。
 わたしはそうした時代の中において、ある意味では、このアリアンサの方々はまさにこの地においてポルトガル語、ブラジルの言葉を習得しながらも、自分たちのアイデンティティ、寄り添う場所としての日本語をきちんと保ちつづけたということ、それは小さなことではありません。むしろ自分たちがブラジルの地で、世界のために貢献するということを確認しつづけるために、この日本語を大切にされていたということに、わたしは感慨を覚えるわけです。

 本県はブラジルから長野県にお越しになった方々のためにいくつかの事業を行っています。今、日本全体で二〇万人を越える方々がブラジルからお越しになっています。そして長野県には二万人近い方々がお越しです。小さな幼稚園、保育園の子どもがポルトガル語で授業を受ける、そういったことを民間の企業と一緒に支援するようにしています。小学校や中学校にブラジルから来た子どもたちを分け隔てなく迎えるように、ポルトガル語と日本語の通訳を職員に派遣するようにしています。

 けれどもこれらはとても小さなことです。ある意味ではブラジルが、多くの悲惨な歴史があったにせよ、皆さんをはじめとする日本の方々を、また長野県からの方々を分け隔てなく迎え入れてくれたということに対してはささやかなお返しです。
 そして同時に本県はブラジルから長野県へと学びに来る多くの技術者の研修を受け入れています。このことはさらに充実させるところであります。
 そしてまた本県は、このアリアンサの地をはじめとして、やはり皆さんのアイデンティティである日本語というソフトパワーを保ちつづけていただくために、日本語教育の制度、あるいはより優れたこころざし、ミッションを持った教師の派遣ということをこれから前向きに検討したいと思っております。このことは今日わたしと一緒におとといから訪れ、多くの感動の連続であられる古田芙士議長も、昨日、日本語の教育や、あるいは技術者の受け入れに関して、広いご配慮を受けました。

 さらにわたしは今日このアリアンサの地を訪れ、本県から訪れた者たちが、それは長野県からの恩返し、あるいは長野県に対しての皆さんの感謝の念を求めるのではなく、まさに皆さんがあくまでもアリアンサの地にあり、そして日本語を話し、そしてブラジルを愛し、世界を愛する方々が、長野県もまた過去の認識が誤っていた点をあらため、そして長野県が長野県のためにだけ生きるのではなく、まさに開かれた、本来オリンピックを開いた、国境を越えた友好をすべき県であることを再び確認することであろうと思います。わたしが冒頭に申し上げた、日本を見つめ、そして長野県を見つめ直す旅であると申し上げたのはこうした理由からであります。

 多くの皆さんの先達たちが、そして皆さんが築き上げたことにわたしは深い敬意を表し、そのことが正当な評価を歴史の中で受け、そしてこれからもアリアンサの地が、まさに長野県から来た先達たちが、長野県民だけでなく多くの者を受け入れた、逆に長野県が長野県の者だけを受け入れると言ったときに、敢然とそれに異議申し立てをした。  山国である長野県民はきわめて勤勉で向上心にあふれ、誠実ではありますが、しかしながら時として、山国であるがために、自分たちだけがより優れているといった考えに陥りがちな、よその者たちを受け入れることに逡巡する傾向がなきにしもあらずであります。そうした中において、この地に入植した長野県の出身者たちは、兵庫県の出身者である弓場さんをも友としたように、そうした長野県がこれから取り戻していくべき広い心が、このアリアンサの地で八十年の昔から脈々とつづいているということであると思います。そのことを学ぶために、わたしは今日ここに訪れたと思っております。

 ぜひとも皆さまがこれからも健康であられ、そしてより社会の一員として、高い使命感を持って、日々に感謝しながら健やかに過ごされることを祈念して、わたしの挨拶といたします。本日はお招きいただき、本当にありがとうございます。

 *長野県のホームページにも挨拶全文が掲載されています


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