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ヤマは「バイリンガル」研究に理想的な条件!

渡辺伸勝

渡辺伸勝わたなべ・のぶかつ(27)静岡県生まれ。
2000年 桃山学院大学文学部国際文化学科卒業。
2001年 関西学院大学大学院言語コミュニケーション文化研究科修士課程入学
2003年 関西学院大学大学院言語コミュニケーション文化研究科博士後期課程入学。

 「三世、四世の子供たちが日常会話の中で日本語を使っている現実は、移住地の中でめずらしい現象だ。なぜそうなのかを解明して博士号論文としたい」
 そんなわけで、渡辺さんは弓場農場で一年間の体験生活を始めた。
 日本にいる南米からの出稼ぎ者の研究をする中で日系出稼ぎ者の中には日本語が不十分な者がいる反面、日本で生まれた子供たちの中には日本語もポルトガル語も十分に出来ない者がいて、これが親子の意思疎通を困難にしていることを知った。この逆の現象がかつての移民社会に存在した。これを解決する道の一つが接着剤としての二言語(バイリンガル)習得であり、その理想的な条件を備えているのが弓場農場(通称ヤマ)だと考えた。
 ブラジルに来る前、半年間浜松市で日系出稼ぎ者と一緒に工場で働いたことで研究の視野が広がったという。ブラジル日本文化協会の吉岡黎明副会長に紹介してもらい、妻の泰美(ひろみ)さんと共にヤマにやってきたのは八月六日のことだ。農作業に参加したり、ヤマの子供たちへの日本語指導を手伝っている。泰美さんは、炊事の手伝いをしながら、ヤマの女性たちの日常生活を体験している。このような生活を通して、日本語が子供たちにも継承されている原因の解明に夫婦共同で挑戦している。

 一、研究の背景

 私は関西学院大学大学院の学生として、弓場農場に滞在し、弓場農場の言語と社会についての調査を行っています。まずは、私の研究の背景にある現状と、私の研究計画を説明し、最後に私が注目する弓場農場の言語と社会の特徴を述べたいと思います。

 一般的に、移民は、いかなる国に移住しても移住先の国の中では少数派となり、様々な問題を抱えることになります。そのうちの一つに言語に関係した問題が挙げられます。現地社会での社会的経済的上昇を図り、現地社会との交流を深めるためには、やはり現地の言語を身につけるのは必須条件でしょう。その一方で、自らの帰属意識、つまり、自分は何者なのかを確認するためには、やはり出自の民族言語を身につけて自分自身の基盤とすることも肝要です。加えて、移民は、祖父母・親・子という家族三世代の意思疎通の基盤となる言語も模索しなくてはなりません。そういう意味で、移民は、移住先の言語と民族言語という二つの言語の間で葛藤する存在であるといえるでしょう。そして、これらの問題を解決する道の一つが、二言語を習得することだと考えます。

 しかしながら、実際は、移民は現地での生活が三世代にわたると、もともと持っていた自分たちの民族言語を使用しなくなるというのが通説になっています。そういった現状を踏まえ、私は研究者として、二つの言語の間で葛藤する移民の方々に、バイリンガル(二言語併用者)を育てるための何らかの方策を提案したいと考えていました。そのための研究対象地を探していたときに知ったのが弓場農場です。

 二、弓場農場での研究

 ブラジル・サンパウロ州奥地農村部にある弓場農場は、非常に興味深い日系人移住地です。弓場農場では一世の高齢者から四世の子供までもが農場内の生活言語として日本語を使用しています。まさに三世代を超えて民族言語が維持されている場所なのです。私はこの弓場農場で民族言語が世代を超えて維持される仕組みを解き明かそうと考えました。また、複雑な人間行動の一つである言語行動と社会環境との結びつきを調べるためには、なにか特別な調査方法で挑みたいという気持ちもありました。そうして行き着いたのが、弓場農場に住み込みで調査をするという研究計画でした。

 弓場農場の方々にとっては、農場内で使われている言語もその社会的特性も、ごく当たり前となっている面があります。しかし、そういった事柄にこそ、まだ見いだされたことのない新しい研究の知見が含まれているのです。そこから何らかの意味を読み取るためには、やはり外部の視点が必要になる反面、全くの外部の視点では、複雑な実態は解釈しきれないどころか、誤った解釈につながる恐れがあります。そうなると、外部の視点とも内部の視点とも異なる第三の視点が必要になってくるのです。そこで、私は弓場農場の生活に参加して、そこで生起する様々な事象を住民の方々と共有することで、彼らと同じ地平に立った「生活者」としての視点を獲得していこうと思います。しかし、忘れてはならないのが、調査者として必ずしも現地社会に完全に「溶け込む」のではなく、あくまでも生活者の視点と調査者の視点を兼ね備えた「異人」としての構えを維持していかなければならないということです。

 三、弓場農場での生活と見えてきた実態 ――弓場農場の言語と思想

 弓場農場滞在三ヶ月目を迎えようとしていますが、「異質な生活者」という存在になること、外部と内部の視点を併せ持った第三の視点を獲得することの難しさは、いまでも強く感じています。私の普段の生活は、午前中は論文を読んだり、資料を整理したり、報告書をまとめたりしていますが、午後は畑に出て皆さんと共に働いています。また、日本語教室の手伝いをさせて頂いたり、クリスマスの演劇や合唱の練習にも参加させて頂いています。若者達と余暇を過ごすこともありますし、大人達のお酒の席に加わることもあります。こうした共同生活の中では、研究と生活のバランスをとることは大変難しく、気づくとどちらか一方に偏った日々を過ごしていて、生活のリズムを調整する必要がでてきます。

 そうした日々の悪戦苦闘のなかでも、徐々に弓場農場の言語と社会の実態の断片を、つかみつつあります。まず、日本語が四世まで継承されている大きな理由の一つは、日本語に触れる機会がふんだんにあるということでしょう。確かに日本から来た一世が、旅行者や我々夫妻も含めて約十数名にのぼり、しかも短期滞在の旅行者や日本から来た近隣の日本語学校の先生方などがひんぱんに弓場農場に訪れ、日本で現在使われている日本語に接触する機会がふんだんにあります。さらに、日本語の週刊誌や新聞、漫画、小説、TV、ビデオ、DVDなどが頻繁に日本から届けられます。何よりも、生活の基盤を支える行為(労働中の会話、挨拶、普段の会話など)がすべて日本語で行われています。また、日本語教室では普段は身に付かない読み書きやあらたまったことば使いを身につけます。こうして、弓場農場の若い世代の子供たちは、普段の生活の中で、特別に意識することなく生きた日本語を習得していくのです。それ以外にも、地理的な距離にへだてられ、ポルトガル語話者と日常的に接触する機会が制限されていることや、多くの住民が共同で農業に従事し、自給自足の生活を続けているため、ブラジル社会の影響を受けにくいなどの点も挙げられます。

 問題はなぜ日本語に接触する機会がふんだんにある環境が形成されたのかということです。日本語を生活の中で積極的に使うということは、弓場農場の社会文化の規範に沿った行為であると考えられます。弓場農場の規範の基礎となるものとは、突き詰めて考えると、弓場農場創設当初から続く理念がそれでしょう。弓場農場の理念を築いた弓場勇は、日本人という民族性を欠いてブラジルに同化するのではなく、日本文化を基にして新しい文化を創造することを旨として、日本文化の継承を重視していました。加えて、生活の中で日本語を使用する環境が維持される限り、文化は自然に継承されて行くとも考えていました。そうした多文化主義的な理念が、現在の弓場農場の日本語環境を形成して来たのでしょう。

 四、弓場農場での生活と見えてきた実態 ――弓場農場の言語と社会

 弓場農場の言語とその背景にある思想との関係は、今後さらに考察を加える必要がありますが、現在の弓場農場の日本語環境を支えているのは弓場農場の独自の思想であることは間違いありません。しかしながら、それでは弓場農場の住民全てが一様に日本語のみを使っているかといえばそうではありません。

 まず、弓場農場内では基本的には日本語が使われていますが、非常に多くのポルトガル語の単語が取り入れられています。例えば、私がお手伝いをしている野菜畑ではファッカ(ナイフ)、エンシャーダ(鍬)、アルファッセ(レタス)、ヘポーリョ(キャベツ)という風に、農機具や野菜の名前をポルトガル語で呼んでいます。それ以外にも台所用具や、生活用具、植物や動物の名前から農業に関わる用語にいたるまで様々な分野で、多くのポルトガル語の単語が使用されています。また、住民の方同士の会話もポルトガル語でなされる場合があります。私の印象として、また何人かの証言として述べると、弓場農場では特に若い人達、中でも男の子たちは、頻繁にポルトガル語を話す傾向があるようです。何人かいる若い男の子の中の一人は、周りに同年代の者しかいない場合はとくに、そして会話の内容が当事者だけに共有される場合になると、はじめは日本語で話していても途中からポルトガル語に切り替わると言っていました。しかも本人達はそれに気が付かないそうです。

 さらに興味深いことに、若い男の子はある程度年齢が上になると(十四〜十六才くらい)、弓場農場を代表する芸術活動であるバレエや合唱の練習に、ほとんど参加しなくなります。また、日本語教室の手伝いをしていると、日本語の勉強についても男の子よりも女の子のほうが熱心であるといわざるを得ません。若者の男女間の行動の違いは、「夜遊び」においてさらに鮮明に浮かび上がります。十五歳以上の若者達は、週末になると夜中に近隣の町に出かけ、朝方近くまで仲間と踊ったり音楽を楽しんだりします。この「夜遊び」に積極的に参加するのは男の子の方です。また、「夜遊び」の現場では、男の子達はそれぞれに散って行き、ポルトガル語しか話さないブラジル人の仲間と合流して別々に行動するようです。一方、女の子は比較的団体で行動して音楽を楽しむことに専念することが多いようです。

 五.なぜ日本語は維持されるのか ――現時点での仮説

 若者の行動に関するこれまでの記述は、主に私の観察から来る印象と何人かの証言に過ぎず、さらに彼らの行動を追跡していく必要があります。しかし、いくら弓場農場では日本語が生活言語として生きているといえども、住民全体が一様に同じような言語行動をとっているということではなく、日常的に全くポルトガル語を使用しない住民もいれば、若い男の子たちのように、中にはポルトガル語もある程度の割合で使用しているグループもあります。しかも、彼らの普段の行動も独自の特徴を持っていることが明らかになってきました。彼らの言語行動とそれ以外の普段の社会行動とは何らかの関係がありそうなので、引き続き調査を継続していく予定です。なによりも、これからいよいよ焦点を絞って注目していく点は、やはり、なぜ弓場農場では数世代を超えて日本語が維持されているのかという疑問です。

 さらに、弓場農場で生まれ育ち、いまは若者達の親の世代である人達も、昔は彼らと同じような振る舞いをしていたということを伺っています。生活の中でポルトガル語を多用するという行動が変化するのは、人によって違いますが、仕事に責任感や喜びを見出したり、結婚をしたり子供ができたりという契機によるそうです。そうした親の年代の人達の言説に基づいて、弓場農場の男性の言語行動を説明するための一つの仮説を立てました。私は、弓場農場の男性というのは、若いときは弓場農場の外にある世界に憧れ、その社会の規範をもとに自分の行動を形成していく傾向がありますが、次第に弓場農場という社会の規範に基づく行動を身につけていくのではないかと考えます。その背景には、人生における様々な契機を迎えて、外の社会に自己を位置づけようとする志向から、弓場農場内の生活に価値を見出し、そこに自己を位置づけようとする志向へとむかうアイデンティティの変化があるのではないかと思うのです。社会行動の変化と対応して、言語行動の変化についても同じようなことがいえるでしょう。つまり、様々な契機を迎えながら、徐々に「ヤマの人間」というアイデンティティを強く意識することで、弓場農場の規範に沿って日本語の使用に価値を見出したり、弓場農場内の生活にとどまることで自然とブラジル社会との接点は薄れ、ポルトガル語の使用が減少していくのではないでしょうか。  これまで述べてきた、弓場農場の言語と社会についての考察はたった三ヶ月の滞在での印象でしかありません。とりあえずここまでの成果としても不備のあるものですが、現時点での仮説を批判的に検証していくことで、また新しい研究の視点を模索し、さらに焦点を狭めた調査を継続していこうと思います。


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