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アリアンサ移住地の歴史をまとめること

渡辺伸勝NPO現代座 ありあんさ史研究会
渡辺伸勝
(関西学院大学大学院)

1.はじめに

二〇〇五年六月七日、アリアンサ移住地の歴史を編纂するための組織が設立され、私はその事業に参加させて頂くことになりました。
私は二〇〇四年八月から二〇〇五年八月までのあいだ、アリアンサ移住地の中にある弓場農場に滞在し、弓場農場のことばについての研究を行っていました。
弓場農場は「祈ること、耕すこと、芸術すること」をモットーに自給自足を目指し、独自の農業と芸術を展開している共同体です。その姿はアメリカの「アーミッシュ」やイスラエルの「キブツ」、日本の「新しき村」などの共同体を連想させ、そうした特殊な共同体の中でことばがどのように変化していくのかということに興味を持っていた私は、博士論文作成のために弓場農場での調査を行うことにしました。もともと、弓場農場のことばを調べるつもりでブラジルに渡ったので、はじめはアリアンサ移住地の歴史についてまで調査の範囲を広げるつもりはありませんでした。
私がアリアンサ移住地の歴史に興味を覚えたのは、弓場農場滞在半年を過ぎたころからでした。ここでは、なぜ私がアリアンサ移住地の歴史に興味を覚えたのか、そして、なぜアリアンサ移住地の歴史をまとめることが必要なのかということを説明したいと思います。

2. 弓場農場での調査

弓場農場でのことばの調査を続けているうちに、弓場農場のいくつかの特徴が明らかになってきました。弓場農場の経営を支える主な産業は農業ですが、単なる第一次産業としてのそれではなく、農作業自体に効率化や都市化、工業化へのアンチテーゼという意味が込められていました。また、小さい子供から高齢者にいたるまで、多くの住民が何らかの芸術活動に従事しています。特にバレエはサンパウロ州から文化功労章をもらうほど高く評価されています。彼らはバレエを通じて、移住の意義や自然との調和、先人達への畏敬の念など、自らの生活に深く結びついたメッセージを表現しているのです。
しばらく調査をしているうちに、弓場農場の住民の方々は、独自の意味が込められた農業や芸術活動を通じて、弓場農場の一員であることを確認し合い、弓場農場の一員としての人間性を形成しているという側面があることがわかりました。
さらに独自の生活形態が形成されている弓場農場には独自の思想体系が存在していること、そしてその思想は大きな理想を掲げて農場を創設した弓場勇ら数名の若者によって練り上げられてきたことなどがわかりました。しかし、いくら大きな理想を掲げていても、それを受け入れることのできる環境がなければ、その理想は消えてしまうでしょう。つまり、弓場農場創設者たちの理想を受け入れることの出来る環境があったことが、弓場農場の存続を決定づける条件の一つだったはずです。そこで、弓場農場の現在の姿を理解するためには、農場創設者たちを惹きつけ、彼らの理想を育んだ、アリアンサ移住地の歴史を紐解くことが必要だと気づいたのです。

3.アリアンサ移住地の中の弓場農場

 弓場農場を理解するためには、アリアンサ移住地の歴史を探る必要があると感じた私は、まず、弓場農場創設者たちを惹きつけたアリアンサ移住地の根本にある考えを探りました。そこでたどり着いたのは、「コーヒーより人をつくれ」ということばです。このことばの背景には、アリアンサ移住地が建設された当時のブラジル日本人植民地では、人をつくるよりもコーヒーをつくる方が重要だったという事情があります。それを説明するためには、まず、日本人がブラジルにやってきたのはなぜか?という疑問に答えなければいけません。
日本人のブラジルへの移民が始まったのは1908年ですが、当時の日本は、明治維新以後の人口の増加、農村の疲弊、失業者の増大という問題を抱えており、その対処策として政府は海外への出稼ぎ移民を奨励していました。当初ブラジルにやってきた日本人移民達は、ブラジルでよりよい人格を形成し、ブラジルに永住して豊かな生活をおくることを目的としていたわけではなく、短期的にお金を稼いで日本に帰国するために来たのです。
一方で、アリアンサ移住地を建設した人々は、ただお金を稼ぐためにブラジルに来たわけではなく、ブラジルに定住することを視野に入れて、移住地の未来を託すことのできる人材を育てることを目指したのです。「コーヒーより人をつくれ」、このことばからは、単なる出稼ぎをやめて、ブラジルに定着し、日本人移民としてブラジル社会に貢献しようという、現代の多文化社会で生きるわれわれに対しても示唆を与えてくれる積極的な姿勢がうかがえます。また、アリアンサ移住地建設の理念は、当時の圧迫感のある日本社会で自由を強く望んだ多くの若者を引き付けました。弓場農場創設の中心人物である弓場勇もまた、アリアンサ移住地の理念に共感してブラジル移住を決めた若者の一人です。
アリアンサ移住地には素晴らしい理念があった一方で、その建設と発展の背景には多くの困難があったようです。残念なことに、アリアンサ移住地の発展の過程で多くの住民がアリアンサ移住地を離れ、それと同時に、アリアンサ移住地の理念も忘れ去られようとしています。その中でも、経済活動のみに力点を置くのではなく、文化活動にこそ自らの存在意義を見いだしている弓場農場には、当初からのアリアンサ移住地の理念が色濃く残っているといえるでしょう。
このように、一見異様に見える弓場農場をアリアンサ移住地の歴史の中に位置付けてその姿を眺めると、弓場農場の独自な生活や思想は決して異様なものではなく、むしろそこには古き良きアリアンサ移住地の面影を指摘することができるのです。

4.歴史の継承

私は、弓場農場の独自の生活と思想体系に興味を覚え、それらを理解するためにアリアンサ移住地の歴史を調べました。そして、アリアンサ移住地の歴史を理解することによって、結果として、より的確に弓場農場を理解するための有益な視点を得ることになりました。私にとってアリアンサ移住地の歴史を知るということは、弓場農場を理解するための大きな要因となりましたが、アリアンサ移住地の歴史について指摘すべき点はもう一つあります。それは日本人のブラジル移民の歴史の中で、アリアンサ移住地の建設が持つ歴史的な意義です。
アリアンサ移住地建設前までは、前述のように、出稼ぎ型の移民が主流でした。そうした状況の中で、定着型の移住を奨励する考え方は当時の日本人移民にとっては画期的だったでしょうし、さらにこの画期的な考え方に沿った移住地が建設されたことは、その後のブラジル移住に大きな影響を与えたようです(それについては別の機会に詳しく述べることにします)。
ひるがえって、現在のアリアンサ移住地の現状を考えると、残念なことに、アリアンサ移住地の歴史は失われつつあるといわざるを得ません。現在アリアンサ移住地ではいくつかの問題を抱えています。
アリアンサ移住地の人口の推移(第一アリアンサのみ)第一に、アリアンサ移住地の日系人人口の減少という問題があります。表1は、いくつかの参考文献と私が行った調査を基に(注1)、1925年から2005年までの第一アリアンサ移住地の日系人人口の推移をまとめたものです。これによると、第一アリアンサ移住地では1945年ころまでは人口は増加していますが、それ以降は減少する一方で、2005年では約350人にまで減少しています。アリアンサ移住地では、第二次世界大戦が終わる1945年を境にサンパウロ市などの都市に人口が流出しはじめたそうです。さらに近年では日本への出稼ぎも増加し、アリアンサ移住地のこれまでの歴史を将来に伝える役割を担う若者はますます減少しているようです。
第二に、アリアンサの移住地史が数十年の間一度も編纂されていないという問題です。これまでアリアンサ移住地の歴史は5回編纂されていますが、どれも古いものです。このうち全アリアンサ移住地の歴史を包括的に編纂してあるのは二册のみで、それぞれ1936年と1952年に出版されています。最新のものが1979年に出版されていますが、これは第三アリアンサのみです。これではアリアンサ移住地の歴史を知る事は困難です。 さらにアリアンサ移住地の歴史を知る上で障害となっているのはことばの問題です。2002年に全アリアンサで行われた日系人の実態調査によると(注2)、家庭内で使われる言語は主にポルトガル語であり、特に若年層において日本語の読み書きが出来る者はほんのわずかしかいないことが報告されています。
前述したアリアンサ移住地の移住地史は全て難解な日本語で出版されているため、ポルトガル語しか読むことが出来ないアリアンサ移住地の若者にとっては、アリアンサ移住地の全体的な歴史を知る術がないのです。アリアンサ移住地の住民の読み書き能力はさらにポルトガル語に特化されていくことが予想されるため、ポルトガル語で書かれた移住地史が用意されていないことは、アリアンサ移住地の歴史を次の世代に継承する上で非常に深刻な問題ではないでしょうか。

5.移住地史の編纂

ブラジルの日系人移住地で活躍されているある学芸員の方は、歴史の本を書くことは、その土地の歴史を保護することだと仰っていました。そして、衰退しつつある、ある日本の村の歴史をまとめたときの出来事を語ってくれました。その村の若者が、できあがった村の歴史の本を読み、ここには失ってはいけない貴重な歴史があることに気づき、それを守るためにもその村に留まる意味があると語ったそうです。
アリアンサ移住地は現在では農業用地として整備されていますが、昔は原生林だったと聞きます。大変な苦労をしてそこを切り開き、今度はそこに日本文化を取り入れた芸術の芽がひらき、野球などのスポーツが盛んに行われ、各方面の一線で活躍する人物を輩出してきました。アリアンサ移住地を支える次の世代の人々がそうした誇るべき歴史を認識しないのなら、同時にアリアンサ移住地で生まれたことに誇りを持てなくなり、アリアンサ移住地に留まる意味も見出せなくなるかもしれません。もちろん歴史の本を書いたからといって、生活が向上する訳でもお金が儲かる訳でもありません。しかし、いくら生活が苦しくても、誇りを失ってしまったらあとは衰退を待つだけではないでしょうか。若者が都市に流出しているアリアンサ移住地において、今こそひとりでも多くの若者にアリアンサ移住地の歴史を伝え、もう一度アリアンサ移住地で生まれたことの意義を考える必要があるのではないでしょうか。そして、アリアンサ移住地がこれからも存続していく為の手がかりは、もしかしたら産業の発展と同時に歴史の継承なのかもしれません。
 こうした問題意識の上でアリアンサ移住地史編纂委員会が設立されたわけですが、実際にどのような内容を盛り込んでどのような構成にすべきかという議論は行われていません。しかしながら、全アリアンサを含めた移住地の歴史がなぜ今編纂される必要があるのかを考えると、自ずとどのような移住地史を編纂すべきかがはっきりするはずです。まず第一に、今回編纂される移住地史は、アリアンサ移住地の将来を担う人々に向けられたものであるべきです。ポルトガル語しか読めない、現在のそして未来のアリアンサ移住地の若者を中心的な読者として想定した場合、もちろんポルトガル語で書かれる、それに加えて平易な文と内容にする必要があるでしょう。さらに、ある時期以降のアリアンサ移住地の歴史だけに特化したり、もしくはある特定の団体や出来事に特化して記述するというよりは、むしろ、アリアンサ移住地建設当初から現在に至るまでの歴史全体を記述するような性格になるように心がける必要があるように思います。現在のところ、アリアンサ移住地史編纂委員会にとっての一番重要な懸案事項は、アリアンサ移住地の歴史を継承していくことを何よりも優先させた移住地史の構成案や目次案を考案することではないでしょうか。

注1『創設十年』p133『創設二十五年』p39『創設四十五年』p76-78と2005年4月に行った第一アリアンサ文化協会役員への聞き取り調査を基に作成。ただし2005年の人口については正確には分からず、約350名とのことだった。

注2サンパウロ人文科学研究所(2002)『日系社会実態調査報告書』より


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