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母にみちびかれた旅

弓場勝重(談)

左から三女高島栄(さかえ) 次女上田信子 五女弓場勝重 いずれもアリアンサ生まれ。  わたしにとっての母「はま」は、父と共に七人の仲間と弓場農場を創ってきた人です。原始林の中で賛美歌を口ずさみ、日々の生活の中でわたしたちを育んできた人。今は過ぎ去った思い出となった母の生き方を、ほんの少しでも残しておきたいという気持ちが強く起こってきました。同時にいつか本にしたいという気持ちがあり、いろいろな人と出会うたびにわたしの気持ちを話してきました。
 そんなある日、わたしたちの友人の二宮正人さんから、ぜひ本にしたいのだがという思いを知らされました。わたしは本当に嬉しく、その申し出を受けました。そして、奥さんのソニアさんが素敵なポルトガル語訳を付けてくださったのです。
 母は八歳のとき両親を失い、十五歳でアリアンサへ移住しました。両親を失ったはまがブラジルへ行くというので、親戚の人たちはみんな心配したそうです。それで、一度はふるさとに帰って、父親の意志を継いで元気でやってる姿を見せたいと言っていました。わたしは「はまの大きな大きな樹」が出版できたら、ぜひ日本へ行って、ふるさとの人に見せてあげたいと思っていました。そしてついに、母をおじいさん、おばあさんのそばへ連れて行くことができました。
 日本へ着くとわたしは日本力行会の永田泉さん(永田稠の長男)をおたずねし、母のための礼拝をお願いしました。泉さんは「はまちゃんが帰ってきてくれた」と涙を流されました。
 一四歳の時、母は力行会の永田(稠)先生に「自分はどうしても両親の行きたかったブラジルへ行きたい」とお願いし、永田家のお手伝いをしながらブラジル行きの準備をしたのだそうです。母より四歳年下だった泉さんは、実の姉のように母のことを心配してくださったそうです。そして母が一緒に働いていたという練馬区の力行研修農場へも案内していただきました。地球の反対側にあるこの農場で少女時代の母が働いていたのだと思うと、胸が熱くなりました。

 お墓参りには日本にいる三女の信子と四女の栄(さかえ)と三人で行きました。さかえとはもう二十五年も会っていません。さかえは「かつえ、ありがとう。お母ちゃんを連れてきてくれて」と泣いてくれました。
 母の故郷は長野県の下諏訪(現・諏訪市)です。お墓は諏訪湖を見おろす山の上にあります。おじいさんが亡くなったのは一九二〇年の一月三日、その翌々日におばあさんが亡くなったそうです。山のてっぺんにあるおじいさんの墓に母の遺灰を三人で撒き、「アベ・マリア」を歌いました。
 諏訪湖は冬には厚い氷が張り、春先に亀裂が走って盛り上がり、神の道、竜の道と言われるそうです。三人でおいしいおそばを食べながら、八歳だった母はその神の道を渡ってブラジルへ行こうと考えたのかもしれないと思いました。

 それから私は父の故郷(兵庫県西宮市名塩)をたずねました。祖父は名塩で村長を二期務めた人で、父と一緒にアリアンサへ移住し、アリアンサで自治会を作るための準備委員長をしています。
 名塩に着くと以前からお世話になっている八木米太郎さんが財産区の皆さんと迎えてくださり、びっくりしました。ちょうどさくらが満開で本当に素晴らしかったです。米太郎さんが私の曾祖父弓場才三郎の頌徳碑に連れて行ってくださり、「あなたの先祖は名塩の財産区を作り、この村を豊かにしてくれた人だ」と話してくださいました。そうした先祖の血が私の中にも流れていることは本当にありがたいことだと思いました。
 名塩は昔から紙漉(かみすき)で有名なところです。わたしが母の遺灰を持参していることを知り、その灰を紙の中にすき込んでくださいました。この紙をブラジルへ持って帰ります。

「はまの大きな大きな樹」の表紙  出版記念会は横浜の湯村京子さんが開いてくださいました。湯村さんは陶人形作家で一九八六年から九〇年まで駐在員夫人としてブラジルにおられた方で、ユバとも親しい方です。湯村さんもブラジル滞在中に各地を旅行して、線画による「サンパウロの絵本」を出版されています。
 出版記念会には五〇人以上の方が集まってくださり、ほんとうに嬉しかったです。
 三月末から二ヶ月以上も日本に滞在できたのはいろいろな方との思いがけない出会いがあったからです。皆さんのおかげで、東京、横浜、長野、京都、大阪、米子を旅することが出来ました。大阪と米子にはそれぞれ大叔父、大叔母の家があり、どちらも代々お医者さんをしていることも初めて知りました。こうした方々との出会いもきっと母の魂が導いてくれたのだと思います。日本の皆さんありがとう。元気でブラジルに帰ります。

 *名塩村は江戸時代から有名な紙漉の村で、弓場家は代々庄屋を勤めた家。弓場家は蘭学者・緒方洪庵とのかかわりが深く、幕末には洪庵をかくまい、福沢諭吉らを輩出した適塾の支援者でもあった。明治時代、弓場勇の大叔父はアメリカ留学中にキリスト教徒となり、弓場家はキリスト教に改宗した。
 財産区とは明治二十四年に名塩村が生瀬村と合併する際、村有林を個人に分配するかどうかが問題になったが、当時村の助役であった弓場才三郎が名塩財産区として残すよう説得し、現在に至るまで名塩住民に寄与している。昭和十三年に弓場才三郎の頌徳碑が建てられている。(木村)


 アリアンサ移住地 不可解な『金券』の存在


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