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追悼 輪湖 彰さん

木村 快

輪湖 彰さん(2003年11月23日撮影)  二〇〇七年三月二〇日、輪湖彰(わこ・あきら)さんがペレイラバレット市の自宅で亡くなられました。享年八一歳でした。

 輪湖彰さんは幼少年期をアリアンサで過ごしています。現在ユバ農場にある北原・輪湖記念館の内装に使われている材料は、彰さんの育った家を解体したものです。
 彰さんは戦後、青年団活動、4Hクラブ運動の活動家として知られ、一九九四年まで農機具販売会社を経営しておられました。わたしは一九九五年以来幾度もお訪ねしてお話を伺っていますが、印象に残るいくつかを紹介したいと思います。

 一九三二年に親父がブラ拓を辞めてこのチエテ移住地(現・ペレイラバレット市)へ移住したころは、夜、「なんでこんな不健康地に移民を入れたのだ」とどなりこんでくる人が多かった。当時、マレッタ(マラリア熱)が流行していたからだ。
 アリアンサの理事をやめて(一九三〇年)、ここで百姓をやり始めたんだが、それまであまり飲まなかった親父が一〇〇リットルのピンガの樽を買い込んで飲むようになった。やはり相当鬱屈していたのだろう。人からは陽気で闊達だといわれた親父が、家では決して笑顔を見せなかった。
 小さいこどもを抱えて、なぜそんなところで暮らすのだ。こどもの教育のこともあるのだから、サンパウロでブラ拓の仕事をしてはどうかとみんなに勧められたが、親父はがんとして聞かなかった。「俺は一二〇〇人の植民者を入れた責任者なのだから、どんなことがあってもここから動かない。このチエテで死ぬ」と言い張った。そして七五歳で、本当にここで死んだ。家もダムの底に沈んだがね。
 「チエテ十年史」(一九四〇年刊)では古関徳弥と畑中仙次郎がこのチエテを調査して購入したと書いてあるが、本当は梅谷さん(海外移住組合連合会専務理事)と親父が調査して、海外移住組合連合会の移住地としてジョーナス・メイロから買ったものだ。その調査のとき、若かった弓場勇さんがカメラマンとしてついて歩いてたのは語りぐさになっている。

 現代の日本出稼ぎ事情については次のように話されたことが印象に残っています。

 出稼ぎ者はたしかに金を持って帰ってくるが、それ以外には何もない。医者や銀行員が日本の工場でスパナを回している。若い世代が家庭を無視して、人生の重要な時期を金稼ぎに明け暮れている。これは十年、二十年後には大変深刻な事態を引き起こすのではないかと心配している。こどもたちは日本で少々ブラジル語の補習をしたからといって、ブラジルに帰ると結局は通用しない。こどもはブラジルでも日本でもない中途半端な状態に追い込まれ、なんら文化的な意味を持たない存在になっている。。そういう中途半端な状態が若者を非行に追いやる。家庭崩壊のきざしが見えはじめている。
 本当に日本に頼っていいのかどうか。大局的に見て、日本の経済が安定しているとは思えない。ブラジルからの出稼ぎ者は統計的には現在二〇万人と言っているが、実態はもっと多いだろう。出稼ぎによるドルの獲得はカフェの輸出より多額だから、政府は問題を感じながらも黙認している。ブラジルからの海外への出稼ぎは現在三〇〇万人と言われている。
 一獲千金の夢で出稼ぎに来た日本移民の子孫たちが、今は逆に一獲千金の夢を追って日本へ出稼ぎに行く。日本で生まれたこどもは日本が自分の国だと思っているから、日本へ帰りたがる。日本語しかわからない孫はブラジル人の祖父母と会話ができない。出稼ぎが家庭崩壊を促進している。
 そういう子供たちが日本で定着できればそれでもいい。だが、日本人には人種的壁がある。日本の親戚は観光で来たのなら歓迎するが、出稼ぎに来たのでは敬遠する。
 ヨーロッパ移民の場合は人種問題や宗教問題による自己の選択としての移住が基本だが、日本の場合は国策による口減らし政策に乗っかった出稼ぎだったから、子孫のための移住という視点が弱い。長期的には多くの問題を抱えることになるだろう。
 ブラジルの側にも基本政策がなく、ただ日本から金をもらうだけでは仕方がないだろうと、ブラジルの新聞は批判している。(1997/8/4)

写真:輪湖 彰さん (2003年11月23日撮影) アリアンサ一周年の入植記念日、1925年(大正14年)11月20日生まれ。アリアンサ二世第1号。


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