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アリアンサ運動の歴史

第一部 アリアンサへの道

木村 快

三、輪湖俊午郎

  アメリカ育ちのジャーナリスト

輪湖俊午郎 輪湖俊午郎は一九一四(大正三)年にアメリカからブラジルへ再移住したジャーナリストで、邦字新聞記者の草分けである。輪湖は移民会社系のグループとは常に距離を置き、語学が達者でブラジル側の移民政策にも通じる異色の存在であった。一九一七年に移民組合(後の海外興業)が活字新聞・ブラジル時報を発行することになったとき、サンパウロ総領事松村貞雄は移民会社の宣伝紙になることを懸念したが、輪湖を編集長に据えるという条件で同意したといういきさつがある。そのため、輪湖は独自の主張を展開することが出来たが、会社幹部からは煙たがられ、個人的な中傷を受けることも多かった。
 輪湖俊午郎は明治二十三年六月に長野県梓村(現・松本市)で生まれている。松本中学(現・深志高校)三年の時、父が多額な負債を抱え、学業の継続が困難となったため、明治三十九(一九〇六)年、十五歳で単身渡米している。渡航目的は英文学研究であった。
 渡米後はロサンゼルス市の邦字新聞・羅府毎日で文選工として働きはじめる。文選という仕事は一万字以上の漢字を扱うため、かなり高度の知識が求められる。明治時代の中学生は知的教育を受けた限られた人材であり、輪湖は新聞の分野でも重宝されたようである。
 一九〇八年三月、ユタ州ソートレーク市の邦字新聞・ロッキー時報が活版印刷を開始することになり、輪湖は印刷工場責任者として迎えられている。『山中部と日本人』(一九二五年・ロッキー時報社刊)によれば、輪湖は工場責任者の傍ら紙面に随筆・小説などを掲載していたとある。自伝『流転の跡』によればエール大学出身の編集長武石浩玻と同居していたとあり、印刷責任者であると同時に紙面を埋めるための編集者的役割も兼ねていたものと思われる。山中部とはロッキー山脈東側のユタ州、ワイオミング州、アイダホ州などを指す。

  移住都市ソートレーク

 ソートレーク市は一九世紀初め、ニューイングランド州に起こったキリスト教の一派であるモルモン教徒(正式には「末日聖徒イエス・キリスト教」)が正統派キリスト教から異端視され、様々な迫害を受けたため、一八四七年に当時メキシコ領であった不毛の地へ移住して築いた街である。迫害を受けた歴史があるため、日本人に対しても比較的寛容で、多くの日本移民が移り住んでいた。
 輪湖の滞在は一九〇八年から一九一三年にかけての五年あまりだが、この間、ソートレーク大学の聴講生として地質学を学んだり、日本移民の実情を知るためビンガム銅山で働いたりしている。
 ソートレークの都市づくりは画期的なもので、教会を中心に東西南北に六〇メートル幅の道路がひろがり、番地さえわかればどこでも地図なしにたどり着くことがきた。また、一万人を収容するアメリカ最大の音楽堂ではパイプオルガンが鳴り響いていた。生活の仕組みも相互扶助を基本にして組み立てられており、地区責任者の家には万一に備えた医薬品が常備されていた。輪湖は迫害を受ける日本移民にこそこのように自立した移住地が必要だと考える。
 『流転の跡』によれば、日本移民への排斥が激しくなってきた一九一三年頃、日本から送られてきた雑誌『実業の日本』に、ブラジルで青柳郁太郎がサンパウロ州から土地の払い下げを受け、イグアッペ地方に定住植民地を建設するという記事を見つける。その瞬間ブラジルへの再移住を決意したと書いている。アメリカ東部で排斥されたモルモン教徒が自らの安住の地ソートレーク市を建設したことと重なって見えたようだ。このとき、輪湖はまだ二十三歳である。

  カナンの地への目覚め

 輪湖の移住思想を語る上でふれておかなければならないことは、彼が聖公会派のキリスト教徒だったことである。松本中学時代、英語の教師が聖公会牧師のカシアス・F・ケネディだったことから、バイブル研究会に参加し、松本市聖十字教会へ通っている。十五歳でのアメリカ渡米もケネディ師の助力によるものと思われる。アメリカでの引受人も聖公会関係者だったようで、渡米直後、カナダ領ビクトリアの聖公会で洗礼を受けている。
 ブラジルはカトリック社会である。輪湖がブラジル人と自由に接触できたのも語学力だけでなく、キリスト教文化に違和感を持たなかったためと考えられる。移住事業に関心を持つようになったのも、異境の地で排日差別を受けながらさまよう出稼ぎ移民の姿が、旧約聖書に描かれた流浪の民と重なっていたためと思われる。エジプトを追われた流浪の民は、苦難の旅を通して神から約束された安住の地「カナンの地」をめざすわけだが、輪湖には「移住地は移民のためのカナンの地でなければならない」という強い信念があった。「カナンの地」という表現は明治大正期のキリスト教徒が好んで使った言葉であるが、アメリカやブラジルの移民社会では特に現実感を持った言葉として使われていたようだ。

  イグアッペ植民地の危機

青柳郁太郎 輪湖は青柳郁太郎のイグアッペ植民地に期待を持ってブラジルへ再移住したのだが、現実のイグアッペ植民地は数々の課題を抱えて苦戦していた。イグアッペ植民地は一九〇八(明治四一)年に定植移住論者・青柳郁太郎が桂内閣に意見書を提出したことからはじまり、一九一三年、政府の意向で東京商工会議所会頭・渋沢栄一を委員長として設立したブラジル拓植株式会社の大植民地である。しかし、その中心植民地であるレジストロ植民地は三〇〇家族の導入を目標にして開設されながら、一年以上たっても入植者は一〇〇家族に満たない状態で、東京の株主の間では批判が続出していた。そこで政府は一九一八(大正七)年にイグアッペ植民地を国策会社・海外興業へ併合する方針を打ち出した。
 しかし、資本金九〇〇万円の海外興業に吸収されると、資本金一〇〇万円の青柳側は植民地経営の実権を失うことになる。植民地の育成には長い時間が必要である。出稼ぎ移住の斡旋で利益を上げる海外興業は利益の上がらない植民地を切り捨てるのではないかと、入植者たちの間に不安が広がっていた。輪湖はイグアッペの理事北島研三医師や後にアリアンサ建設の同志となる北原地価造らと会合を重ね、海外興業が実権を握る前に移住者を増やし、住民側の自治力を強めるしかないという結論になる。

  移植民募集のための帰国

イグアッペ植民地精米所の跡 『流転の跡』によるとこの時期、輪湖は一九一八年初頭のモジアナ線及びノロエステ線視察旅行の結論として、次の三点をあげている。

 一、移民の永住性  政策のないままに送り出された移民は実は家族移民であり、出産率が高く年々家族の人員が増加し、事実上帰国が困難になっている。家族移民は宿命的に本国へ帰ることは不可能であり、定住してこそはじめて意義を持つ。これを日本政府当局や移民にどう納得させるか。
 二、移民子弟の教育  奴隷開放後わずか三十年にもならぬブラジルではサンパウロ州の大耕地ですら児童教育への対策を持っていない。児童教育を中心として考える時、邦人移民の集団的植民は絶対に必要である。
 三、数は勢なり  イグアッペ植民地が移民会社中心の海外興業の経営に移るとしたら、住民自治の力を大きくする必要がある。またブラジルにおける日本移民の未来を考える上でも、日本移民の力を強くする必要がある。この際、日本国内でブラジル移住の宣伝を徹底し、渡航を盛んにする必要がある。

 輪湖はイグアッペ移住の希望者が少ないのは、日本で定住移住の実態が知られていないためであり、日本人に定住移住の意義を知らせなければならないと考える。輪湖はブラジル時報編集長の肩書きのまま一時帰国し、イグアッペ植民募集のために八ヶ月間長野県を中心に移住者募集に走り回っている。そして長野県から百三十家族の移住者を募り、一九一九年四月にブラジルへ戻ってくる。このときの移住で長野出身者はイグアッペにける最大勢力となる。
 海外興業への併合については青柳は最後まで抵抗したが、結局一九一九年四月、併合されてしまう。
 七月、輪湖の後ろ盾であった松村総領事が任期を終えて帰国する。輪湖もブラジル時報を退社するが、サンパウロから居を移してイグアッペの入植者となり、開拓生活をはじめる。そして住民の一人として北島研三医師や北原地価造らと植民地改革についての会合を重ねていた。北島は青柳郁太郎から植民地の医師として招かれた理事であったが、医療者の立場から海外興業の経営に強い懸念を持っていた。
 永田稠がイグアッペを訪ねたのはそんなときだった。

(写真)イグアッペ植民地精米所の跡

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