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大正デモクラシー文化を引き継ぐ農場

サンパウロ州略図 丸数字は創立年代順  アリアンサはサンパウロ市から六〇〇キロ離れた奥地にある。この距離はざっと東京・神戸間に相当する。
一九二四(大正一四)年、劣悪な日本移民の現状を改善するため、日本力行会の永田稠(しげし)が長野県に働きかけて、現在のNPO法人にあたる信濃海外協会を設立し、民間の資金を集めて建設した移住史上大変珍しい移住地である。アリアンサとは約束・協力を意味するポルトガル語だが、創設者の永田稠は「和親・協力」の意味でこの村の名称に選んだと言っている。今日の言葉にすれば共生・協同である。
 日本力行会とは明治・大正期に青年達のアメリカ移住を支援したボランティア団体で、当時国際連盟次長だった新渡戸稲造や教育学者として名高い沢柳政太郎らが顧問として支援していた。この移住地は当時、世界中に広まりつつあった協同組合思想に基づき、開発、運営もすべて参加者による協力と協同で進めた。多くの若者が新世界建設の夢を持って参加し、日本国内では考えられなかった自治運営の村を実現した。それは大正デモクラシーがブラジルの大地に残した文化であった。
 日本の近代史では扱っていないが、この移住地の成功に刺激された日本政府は一九二七(昭和二)年に海外移住組合法を制定、内務大臣を会頭とする「海外移住組合連合会」を設立。上図のグレーゾーン3・4・5に大規模な国策移住地を建設した。各県に組織された移住組合から多くの移住者が送り出され、国策管理の街が誕生する。この国策事業に関与した人脈が日本人移民社会の指導層を形成することになる。
 しかし日本の国際的孤立が深まる一九三四年、共生・協同を掲げたアリアンサもついに国策会社に併合され、自治・協同の村は歴史を閉じた。夢を失った住民は村を去り、協同の精神は失われ、農地も荒廃していった。その時、アリアンサ精神を受け継いで村を再建しようと設立した青年達の協同農場が弓場農場、現在のコムニダーデ・ユバである。
 移民一〇〇周年を迎えた現在、日本人居住地はほとんど消滅してしまったが、アリアンサだけは今でも日本文化を残す村として生き続けている。ユバは村の文化センターとしての役割を果たしている。村では毎年八月に創設者の偉業をしのぶミサが開かれ、村を拓いた先人達への慰霊祭が行われている。

ユバの慰霊祭。アリアンサ墓地の「弓場農場の碑」の前で
写真はユバの慰霊祭。アリアンサ墓地の「弓場農場の碑」の前で。

 弓場一党と呼ばれた創設者たち

昭和10年 協同農場開設相談会  弓場農場は一九三五年四月、弓場一党と呼ばれる青年たちが設立した協同農場である。最初は村の指導クラスの人物も一緒に計画をすすめていたが、当時二八歳だったリーダーの弓場勇が土地の個人所有を否定し、共同所有と芸術活動の重視を強く主張したため、結局弓場一党だけになった。
 写真左から、太田秀敏(二一歳)は青森県出身、新渡戸稲造の甥である。志保沢了(二六歳)は明治大学出身、バス会社社長の息子でありながらアリアンサに憧れて入植、野球チームのメンバーとして活躍。望月数太郎(二六歳)はアリアンサ・チームの一塁手で四番バッター。弓場稔(二六歳)は弓場家の次男、兄勇とは対照的に温厚な性格で信頼を集めた。斉藤昇(二六歳)は東京外国語学校(現・外語大)スペイン語科出身。移民輸送監督秘書をしていたが、アリアンサを知り、弓場一党に加わる。
 浜村利一(二六歳)は下関商業出身、サンパウロでブラジル会計経理を習得し、終生弓場の補佐役に徹した。弓場寛(一九才)は弓場家の四男、農場開設に先立って、当時もっとも先進的と言われたラトビア人のパルマ協同農場で研修を受けた。佐藤啓(二六才)は北海道出身、アリアンサ在住の兄を訪ねたのが縁で弓場勇と意気投合する。その他に、創立には顔を出せなかったが計画段階から弓場を支え、終生ユバの中核として活躍した箕輪謹助(二六歳)がいた。
 彼らは村の青年に呼びかけ、産業青年団を組織、無償で移住地道路の造成に取り組み、村の疲弊した土壌を改良するため、養鶏普及運動を起こした。弓場勇は戦時中の日本人敵視政策をものともせず、ブラジル人の間で支持を取り付け、鶏卵のサンパウロ出荷を実現させる。そして、「耕し・祈り・芸術する」ことに同意する者は生活困窮者でも病人でも無条件で受け入れ、やがて南米最大と言われる二〇万羽の養鶏場となる。
 しかし、一九五二年、経営方法の合理的改善を要求する南米銀行と対立、これを拒否したため農場は差し押さえられ、倒産する。日本人社会ではこれでユバも息の根を止められたと思ったが、弓場一党は「村がある以上、仕事は続ける」とまた無一文から再出発し、現在に至っている。
 農場は二世・三世の時代だが、「耕し・祈り・芸術する」という方針は今も変わらない。

(写真:昭和10年 協同農場開設相談会)

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