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アリアンサ運動の歴史第二部
  共生の大地を支えた青年たち

木村 快

 六、野球チームから産業青年団へ

 力行会アリアンサ支部のもう一つの顔はアリアンサ野球チームだった。文化的自立を目標とする移住地であるから、青年たちは農園労働だけに縛られることなく、スポーツ・文化が奨励され、農園主たちも積極的に支援した。
 一九二六(大正十五)年六月に海外学校一九二五年組の弓場勇が一家十人で移住してくると、弓場の呼びかけでたちまち野球チームが結成される。力行会員はたいてい旧制中学の出身者であったから、野球チームを編成することはそれほどむづかしくはなかった。青年会長の小川林は先頭に立って野球場の建設に取り組んだ。野球場は青年たちを軸にした村人の社交場となり、村づくりの議論の場となっていった。
 当時、野球はサンパウロ市周辺のチームと海外興業の植民地レジストロのチームが全ブラジル野球大会を開催していた。そこへ遥か六百キロの奥地からアリアンサチームが鍋釜持参でサンパウロへ乗り込み、最初の年こそサンパウロに惜敗するが、一九二七(昭和二)年から三年連続で優勝。アリアンサは広く知られるようになる。青年たちは野球チームの遠征によって各地の移民や外国移民の現状を視察。焼き畑農業を繰り返すだけの移民の将来に不安を感じ、村のあり方について議論を重ねるようになる。
 弓場は各移住地の青年との連携をはかるため、ノロエステ野球連盟、ノロエステ・パウリスタ野球連盟を組織し、スポーツの連帯はさらに農地改善運動への提携へと発展させていく。
 一九三四年、アリアンサが国策会社に併合されると、自治を失った村に失望した力行会員は村を去りはじめるが、弓場勇らは独自にアリアンサの伝統を引き継ぐべく協同農場を起こし、やがて産業青年団を結成し、村づくりの中心勢力になっていく。

1928年のアリアンサチーム
 一九二八年のアリアンサチーム。左端が主将の弓場勇。後列左から五人目の小柄な眼鏡の青年は相馬文雄(六ページ写真参照)相馬はこの後、アマゾンに行き、マラリアで死亡、これが最後の写真となる。
 背後に見える建物は入植者の一時宿泊所。

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