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アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

二、海外移住組合連合会の出現

  混迷する政局

 第五十二議会の政府は若槻礼次郎憲政会内閣であったが、この議会は片岡蔵相が「東京渡邊銀行は破産した」と発言して大混乱となり、金融恐慌の引き金となった議会でもある。渡邊銀行は実際には倒産していなかったのだが、ちょっとした手違いから倒産したと勘違いしたもので、この発言がもとで銀行の取り付け騒ぎがはじまったのである。

 海外移住組合法の成立直前、永田稠は『力行世界』昭和二年三月号に次のような巻頭言を寄せている。

資料2 『力行世界』昭和二年(一九二七)三月号

 巻頭言・議会の二大収穫     永田 稠

  移住組合法の制定と
  国立移民宿泊所の建設費とは
  第五十二議会を通過するものと思はる
  三党主の姶交が不條理にせよ
  議会が泥合戦にせよ
  右の二項は今議会の二大牧護と云はねばならぬ。
  此の意味に於てのみ此議会は有意義であった。

 国立移民宿泊所については、アリアンサ移住地への移住者は出稼ぎ移民のようにからだ一つで移住する人々と異なり、文字通り一家で移住するわけで、その家財道具、開拓器具など大量の荷物の搬送が必要なのと、手続きもまだ体系化されておらず、出国事務が繁雑をきわめた。このため、従来の出稼ぎ移住者相手の神戸の旅館は混雑をきわめていた。このため中央会では再三内務省、外務省に陳情を重ね、国立の宿泊所建設を訴えていた。中央会の懇談グループの一員でもあった内務省社会部長の守屋栄夫が尽力し、この国会で日の目を見たものである。

 移住組合法の成立に一息はついたものの、永田はそれまでの政局の推移に対して「三党主の姶交が不條理にせよ、議会が泥合戦にせよ」ときびしい目を向けている。「姶交」とは古事記に出てくる性行為を意味する「まぐわい」への当て字と思われる。

 第五十二議会の最大の懸案は震災手形の後始末と台湾銀行救済問題であった。震災手形とは関東大震災で被災した銀行・事業所に対して「震災手形割引損失補償令」を出して救済をはかったが、震災にかこつけて放漫経営の穴埋めに使われるケースも多く、決済はなかなか進まず、「財界のガン」と言われていた。

 もう一つの台湾銀行救済問題とは、植民地台湾で手広く事業を展開し、第一次大戦で大企業にのし上がった鈴木商店が倒産の危機に追い込まれ、これに巨額の不良貸し付けをしていた台湾銀行が折からの金融危機で破綻しかかっていた。台湾銀行は台湾紙幣を発行する中央銀行なので、救済に当たらねばならなかった。しかし巨額の負債を国民の税金で穴埋めするわけで、若槻内閣はその対処に苦慮していた。

 当時与党の憲政会は第一党ではあったが、議会を支配する力はなかった。政権奪取を狙う野党政友会と政友本党は、再び前議会で問題となった「朴烈事件」()と「松島遊郭贈収賄事件」を蒸し返し、若槻に揺さぶりをかける。これに対して、与党憲政会側は政友会総裁田中義一の「陸軍機密費持ち出し問題」で対抗しようとしていた。これは陸軍出身の田中が政友会総裁に就任する際、手土産として陸軍機密費から三百万円を持ち出したとする疑惑があったからである。

 そこで、若槻首相は政友会党首の田中と政友本党党首床次竹次郎を招待し、予算を成立させてくれれば、しかるべく考慮するとの合意文書を交わしている。永田の言う「三党主の姶交」とはこのことを指している。「しかるべく考慮する」とは政権をゆずるということだが、若槻は予算成立後も政権交代の意向を見せないので、政友会は若槻との合意文書を公開し、退陣を迫る。不況で国の屋台骨が揺らいでいるというのに、政策よりも党利党略に終始する議会であった。永田の指摘する泥合戦とはこうした政局への絶望感であった。

 結局、若槻内閣は台湾銀行救済のための勅令案を枢密院によって否決され、総辞職する。枢密院とは重要な政策をチェックする天皇の諮問機関で、必ずしも決定権を持っているわけではないが、若槻は政権を投げだしてしまった。それは海外移住組合法の施行規則が公布される直前の四月十七日のことだった。

(註)「朴烈事件」 朴烈事件は関東大震災当時、朝鮮人無政府主義者朴烈が危険人物として保護検束され、さらに天皇暗殺を企ていたとして大逆罪で死刑の判決を受ける。大正天皇が没したことで恩赦として無期刑となるが、これが政友会によって大逆事件の犯人に恩赦を与えるとはけしからんと若槻首相攻撃の材料に使われる。


  田中義一内閣の登場とその歴史的特徴

 代わって登場したのが田中義一政友会内閣である。田中は陸軍大将であり、大正七年のシベリア出兵には陸軍参謀次長として積極的な役割を担っている。すでに述べたように田中は陸軍機密費持ち出し疑惑を問題視された男であるが、こうした人物が登場した背景には、長引く不況にいらだつ世論と社会批判勢力の台頭に危機感を抱く右翼勢力の台頭がある。若槻の台湾銀行救済案を否決した枢密院にも、若槻内閣幣原喜重郎外相の協調外交に不満をもつ勢力が多かったという。

 この内閣は軍部独走への道を開いたと言われるように、昭和二年の就任直後の五月、中国南京政府の北伐(満州軍閥を掃討する作戦)にそなえて、日本人居留民保護を名目に二千人の兵を中国・青島(チンタオ)に出兵させている。これが第一次山東出兵である。次いで六月から七月にかけて閣僚・外務省首脳、中国公使、軍部首脳を集めて東方会議を開き、満蒙を中国から切り離す意図を盛り込んだ「対支政策綱領」を発表。さらに第二次山東出兵、第三次山東出兵と対中国武力政策を急展開している。その結果が関東軍(満州の日本権益を守るために置かれた軍隊)の独走を生み、昭和三年六月の張作霖爆殺事件を引き起こしている()。そしてこの張作霖爆殺事件の首謀者、河本大作、東宮鉄男を処罰することなく、単なる所属換えで済ませたため、天皇の不興を買ったということで総辞職している。

 河本はその後南満州鉄道の理事となった。東宮は関東軍司令部附となり、満州国軍政部顧問に就任し、その後、満州への武装移民をすすめる中心人物になっている。

 田中義一を支えたのは政務次官の森恪と内務大臣の鈴木喜三郎であった。森も鈴木も政友会の中では最右翼の政治家で、森は早くから満蒙を中国から切り離し、日本の植民地にする構想を持っていた。田中義一の対中国強硬策は森によるものと言われている。一方、鈴木は特別高等警察の強化、治安維持法の改悪による左翼勢力への弾圧、自由主義的言論人、学者、学生への弾圧(京大事件など)を強行した人物として知られている。
また昭和三年に行われた第一回普通選挙では対立政党である憲政会を追い落とすための目にあまる干渉で悪名を残している。

註・張作霖爆殺事件 関東軍幹部の河本大作大佐と東宮鉄男大尉が満州軍閥・張作霖将軍の乗った列車を爆破、これを中国人のしわざと見せかけた事件。事の真相は戦後まで明らかにされず、「満州某重大事件」と呼ばれていた。昭和六年の満州事変でも同じ手法が使われている。


  アリアンサ四移住地の排除

 若槻政権で誕生した海外移住組合法は外務省主導で進められていたが、田中内閣によって施行規則が公布された段階では、主務大臣は鈴木喜三郎内務大臣ということになった。

 外務省で法案成立に尽力した石射猪太郎はロンドン勤務となってはずされ、後任課長は、「前任者(石射)の意向にかかわらず、新たに組織される県単位の移住組合のみを対象とし、海外協会の開設した移住地には適用しない」とアリアンサ移住地排除を言明。内務省側で組合法に尽力した守屋栄夫も引継ぎ役としてしばらくは留任しているが、翌年二月には退官して、総選挙に無所属で立候補しているから、これもはずされたと見るべきだろう。

 四年近くもかけて移住組合法を準備し、実際に移住地運営の経験を積んできた海外協会は無視され、アリアンサ四移住地は完全に排除されてしまった。

 そしてここで突如として、内務省主導によって全国各県に海外移住組合が組織され、内務大臣を会頭とする海外移住組合連合会という国策機関が組織される。海外移住組合法成立の時点までは、当然のこととしてこの法律は産業組合法同様広く国民に開かれた法律と考えられていた。それが田中内閣の手に移った瞬間に内務省の支配組織としての各県海外移住組合のための法律に変貌したのである。

資料3 『力行世界』 昭和二年(一九二七)九月号

  巻頭言 移住組合の硬化      永田 稠

 海外移住組合は、愈々官製となった。其の人的組織には、中心がないのみならず、著しく将来の活動と膨張とを阻害する。
 各組合の組織と移住地の経営とは、故意に難路を進みつつあるの感がある。
 此組合を目標として排日運動が勃発し、各移住組合と其移住地とは経営難に陥り、多額の国費は回収不可能となり、三年の後は国民海外発辰の障害となる恐れがある。
 今日にして考慮せざれば移住組合は硬化するであろう。

 施行規則で海外協会系のアリアンサ四移住地が除外されると、三重、岡山、広島、山口、和歌山、福岡、鹿児島の七県は急遽方針を転換して県移住組合を新たに設立する。この段階で海外協会中央会は実体を失い、有名無実化してしまう。そして新設された各県海外移住組合は海外移住組合法第七条に基づく海外移住組合連合会の設立総会発起人となり、八月に総会を開く。本来、第七条で規定する海外移住組合連合会とは移住組合の連絡機関であり、産業組合法に於ける中央金庫と同等の低利資金融資の窓口を担うことになっていた。しかし、これが田中内閣のもとでは組合支配機関へと変貌を遂げる。

 内務省の規定によると、県移住組合設立の法定資金は十五万円である。新たに設立する場合はそれ相応の準備が出来るが、すでに建設が進められている鳥取、富山、熊本の各海外協会はいずれも十万円の資金で建設を進めている。これらの県が新たに十五万円の資金を集めて別組織を設立することはほとんど不可能だった。

 海外移住組合法には初年度に一八〇万円の予算がついており、海外移住組合さえ設立すれば即座に低利融資が受けられ、渡航者には渡航費と準備金が支給される。当時の政界の体質と相まって、各県はわれ勝ちに移住地建設へと突き進んだ。


  全国各県の移住地建設へ

 連合会の会頭は内務大臣の鈴木喜三郎である。理事長には初代ブラジル大使を勤めた田付七太が推されたが、すでに前年外交官を引退しており、高齢であった。

 専務理事には梅谷光貞が就任した。梅谷は内務省の役人であったが、前年の大正十五年八月、長野県知事在任中に起こった警保騒動()の責任をとって内務省を辞任していた。しかし、梅谷は植民地台湾での知事経験があり、大正七年から十年にかけて朝鮮、中国、東南アジア、欧米各国の植民事情を調査して歩いた植民問題の専門家である。たまたま浪人中の身でもあり、ブラジルに植民地を作るには梅谷以外に適任者はいなかったと思われる。

 理事には今井五介、藤山雷太、井上雅二、外務省から武富通商局長、内務省から守谷栄夫社会部長が就任している。ただし、武富、守屋は引継ぎ役としての就任。
 嘱託には移住問題の権威であり最長老である青柳郁太郎と永田稠が名を連ねている。青柳郁太郎は最初の日本人移住地イグアッペ植民地の開設者である。

 ここで重要な点は、井上雅二が理事に加わっていることである。井上は海外興業株式会社社長であり、衆議院議員でもある。もともとアリアンサ運動は出稼ぎ移民を一手に扱う海外興業に対する批判からはじまったのであり、そこには常に対立関係が存在していた。アリアンサを排除し、連合会による「一県一村移住地」政策を考え出したのは、満州移住に備えて全国に国策移住組織の確立を狙う森恪政務次官とブラジルでの既得権を確保しようとする海外興業井上雅二の路線であることが読み取れる。

 連合会設立総会では、ブラジルに各県の移住地を毎年八移住地づつ建設することを決議している。つまり初年度は発起人である三重、岡山、広島、山口、和歌山、福岡、鹿児島の七県とそのあとに続く県の移住地が生まれることになったわけである。土地は一県分五千ヘクタール、入植戸数二百戸、経営主体は各県の移住組合である。移住用地は連合会がブラジルで購入し、各県に分割することになっていた。各県側にすれば、まさに濡れ手に粟であった。現地事情のまったくわからない素人に、資金を融通してやるから割り当てられた土地へ乗り込んで勝手に移住地をつくれというわけである。

 この経過について、永田は「恥をしのんで海外移住組合連合会の嘱託となり、」と書いている。

資料4 『力行世界』昭和二(一九二七)年十二月号

 永田稠「昭和二年を回顧して」より (P.7)

 本年の議会で海外移住組合法が通過し、五月一日からこれが実施されることになったのである。由来、この法律の制定に対しては数年前より苦心していたのであるから、その運用には私ども一派の者の経験が必要視されると思い、また当然の結果として海外協会経営の南米アリアンサ移住地はこの組合法により経営せらるる様になるものと考えていたのであるが、事態は全然そうでなかった。ここに於て私の一身は極めて多忙になって来た。
 三月から九月に至る約七ケ月間、私はこれがために苦しめられた。この間の消息は今私はここに明記するに忍びないのであるが、とにかく恥を忍んで海外移住組合連合会の嘱託となり、海外協会の四移住地は明年度において、移住組合の経営に移さるることの方針で進み得るまでになって来た。
 かくて私には名情すべからざる苦痛であったが、年頭に祈りたる更に多数の移住地が建設せらるる様にとの祈りは、応験あらたかにして、ブラジルに四万町歩の土地が購入され、八個の移住地建設に着手せらるるに至り、私的には感慨無量なれども、公的には祝賀し感謝せねばならぬ次第である。
 私は昭和二年を回顧して、祈りに応え給う大能の神に感謝し、島貫先生の英霊.同情者各位、同労の友、同志の各位に対し、謹みて感謝の辞をささぐる次第であります。

(現代仮名遣いに訂正)

 特に、鳥取、富山については中央会の活動を通して永田の側から働きかけてきただけに大きな責任を感じていた。永田としては残されたあらゆる手段を講じて、アリアンサの破局を食い止めなければならなかった。

註・警保騒動 大正一五年、内務省の地方官官制改正に伴う警察機構の整理(警察署の新設及び統廃合・警察分署の全廃など)の通達を受け、梅谷は反対派を無視し、議会に諮ることなく強行して県民の批判を招き、暴動事件にまで発展した。


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