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アリアンサ運動の歴史
第三部  ブラジル移住史の謎・海外移住組合法

木村 快

五、四移住地統一問題と海外移住組合連合会の政変

  肩代わり問題

 アリアンサ存続を賭けた当面の切り抜け策は、なんとしても内務省の承認を受け、四県の移住組合をそれぞれ設立し、海外協会の資産を移住組合に移譲することだった。この各協会から県移住組合への資産の移譲を「肩代わり」と呼んでいる。

 ブラジルの邦字紙『伯剌西爾(ぶらじる)時報』一九二七年十二月二日号に次のような記事がある。

資料8『伯剌西爾時報』昭和二年十二月二日号記事
  移住組合の設立を巡って

 政府は移民事業について積極政策をとり、本年度から従来のいわゆる裸移民のほかに恒久性を帯びた企業移民を計画し、海外移民(移住)連合会に百七十万円の低資融通をなすことに決定しているので、近くブラジルにおいて四万町歩の土地を購入し、八組合一千六百家族を向う三年間に移住せしめる予定で、同連合会専務理事梅谷光貞氏が十月二十四日、前記土地購入手続きのためブラジルに向かうはずであるが、政府から多大な便宜を受ける移住組合の出現により、いたく脅威を受けたのは、ほぼ同様の目的ですでに設立されている信濃(長野)、鳥取、富山、熊本各海外協会である。
 これらはいずれもブラジル・サンパウロ州アリアンサに総計二万一千町歩の土地を購入し、熊本を除くほかは耕作の経営を開始しているにかかわらず、政府から低資の融通その他の便宜を得ることが出来ないのと、移民の先駆者を冷遇するとの非難の声が高いが、前記海外協会所在地の地方長官が熱心に運動した結果、内務当局もようやくこれに動かされ、来年度予算に移住組合の経費百八十万円を大蔵省に要求し、うち半額をもって前記四海外協会の土地を移住組合に肩代わりして、諸種の保護を加える事に決定した。
 従って明年度新たに設立される移住組合は(アリアンサ四組合を除く・編者註)四組合に限定されるわけである。

 ここでは信濃、鳥取、富山、熊本の四海外協会は新たに各県移住組合を設立し、海外協会の資産を四県の移住組合に肩代わりすることで諸種の保護を加えることに決定したとある。ところが、内務省から突きつけられた肩代わり条件はアリアンサとしては納得できない問題ばかりであった。この点について一九三三年の『伯剌西爾年鑑』(P.35)および一九三六年の『創設十年』(P.50)から拾い出してみると次のような条件がある。

1:出資金は三千口十五万円とする。
2:移住地を複数組合で共営することは認めない
3:不在地主の土地は認めない。
4:協会および組合の直営地は認めない。
5:渡航斡旋は海外興業に一任する。
6:独身者、単独夫婦だけの入植は認めない。
7:一家族二地区以上の所有は認めない
8:一地区、二十五町歩以下の分割、また共同所有は認めない。
9:同一人が二十五ヘクタール以上の土地を所有することは認めない。
10:生産貸付金は一律五百円程度とする

  内務省の無理難題

1:出資金については、信濃十七万円、鳥取、十万円、富山十万円、熊本十万円で開設している。日本内地で今後新設される組合ならいざ知らず、すでに開拓を続けている移住地にこれを突きつけられると、信濃以外の三協会の移住地は認められないと云うことになる。

2:については信濃と鳥取の共営する第二アリアンサ、信濃と富山の共営する第三アリアンサは認めないということである。内務省案では信濃組合、鳥取組合、富山組合の分立を意味しているわけだが、第二アリアンサも第三アリアンサも共営共同の混植で成立しているから、土地を分割することが出来ないし、また本来の理念からしても、住民の意識が分断され、共生による自治を破壊することになる。

3:の不在地主については次のような経緯がある。
 アリアンサ開設時は第一次大戦後の不況で、小作争議が頻発した時代である。政府は解決策の一端として、地主に小作人への土地譲渡を奨励していた。そうした時代であったから、信濃は多少でも地主の土地譲渡に寄与すると考え、地主層にアリアンサの土地購入を勧めた。その土地は協会が責任を持って運営する。協会は自立資金を持たない者を六年、四年、三年の契約労働で導入し、自立を助ける事が出来る。これは特にアメリカ在住の人々に呼びかけ、アリアンサには北米区と呼ばれる不在地主地区があった。ここへは力行青年が導入され、青年たちは請負で資金を蓄積し、自分で土地を購入し自立することが出来た。これが認められなくなると、力行会は青年たちの導入をふさがれることになる。
 こうした不在地主の活用は鳥取、富山でも重要な意味を持っていたし、熊本の場合はこれが認められないと経営の持続そのものが難しかった。

4:の協会直営地の問題も同様である。直営値は移住地の中核であり、日本力行会南米農業練習所で訓練を受けた者はこれら直営地や不在地主の請負で自立が可能だった。

5:の渡航斡旋を(国策移民会社)海外興業に一任することは、そもそもアリアンサ設立の理念にもとることだった。アリアンサ運動の起こりは海外興業が渡航斡旋料やブラジル農園への出稼ぎ移民斡旋で収益をあげながら、移住者に対する保護援助を与えないまま放置していたことへの批判から始まったのである。このため、アリアンサ初期の移住は渡航補助も受けられず、すべて自費渡航であった。それを海外協会中央会の運動で、内務省の渡航補助が実現し、外務省の旅券下付も協会からの申請で可能になったのである。海外興業一任となれば、政府からの渡航斡旋料が海外興業に吸い上げられることになる。

6:の単独者、単独夫婦の入植禁止も、海外興業の出稼ぎ移民、三人以上の実働可能年齢の家族を基準にしたものだと思われる。

10:の生産資金の一律五百円貸し付けに至っては、全く開拓の現場を知らない机上の案に過ぎない。

 アリアンサとしてはこんな乱暴な条件はのめるはずがなかった。こうした折衝に一年以上かかり、その間融資は受けられず、アリアンサは資金の枯渇を招き、危機状態に陥る。当然移住者も減少する。
 直営地の経営については、最終的に信濃だけは認められたものの、その他の移住組合には認められず、住民の間に不安が広がっていった。鳥取、富山は信濃との連携があり、協力が可能だったが、熊本の場合はまだ開拓にかかったばかりであり、経営困難に追い込まれていった。

  四移住地統一運動

 鈴木内相退陣後の昭和三年九月、信濃、鳥取、富山、熊本はやっと県移住組合の設立が認められたが、運営は大変複雑化した。第一アリアンサの場合は「信濃海外協会」から「信濃移住組合」に肩代わりするだけで済んだが、第二アリアンサと第三アリアンサは共営混植であり、移住地の線引きも施設の分割も不可能である。けれど日本側の県が決裁権を持つ「信濃移住組合]]、「鳥取移住組合」、「富山移住組合」が存在し、運営上の案件はそれぞれ県の同意を得なければならない。運営は複雑化し、住民の一体感は損なわれていく。その上、昭和四年になるとアメリカ・ウォール街からはじまる金融恐慌が全世界に波及し、珈琲の価格が暴落、経営は益々困難になる。

 そこで梅谷の提案による「四移住地統一案」をすすめることになる。これは信濃、鳥取、富山の三移住地に熊本を加えた四移住組合を一つの組合に統合し、連合会直轄にするという案だった。梅谷としては一九二七年一月二十五日の公電で「四協会の移住地経営に関し正当に発したる権利、義務は此の際一切現状の儘継承するを至当と認めらるる‥‥」とあり、移住者側による統一経営を尊重する方向で考えていた。現地側は四組合とも異存なく統一案に調印している。だが、白上知事なき後の鳥取、富山の県役人はどう対応してよいものかわからなかったようである。橋浦鳥取理事の再三の県への申し入れに対しても明確な回答はなく、経営資金も送ってこなくなった。このため、昭和五年一月、各県の説得にあたるため、輪湖俊午郎が日本へ一時帰国することになる。

 梅谷も四月に帰国、六月には内務省会議室で輪湖も同席で各県組合代表者にチエテ、バストス両移住地の現状について報告をしている(「梅谷専務帰朝報告演説速記録」昭和五年六月二十四日)
だが、前述したように、各県移住組合の梅谷、輪湖に対する非難が相次いだようである。当然、母県の説得も思うようには進んでいない。それでも梅谷は連合会幹部を説得し、連合会の方針としてアリアンサ四移住地統一案を承認させている。アリアンサでは当然、これまでの苦労が実ったと喜び合った。

  幣原代理首相による連合会の方針転換

 政府はすでに前年の昭和四年七月から民政党の浜口雄幸内閣になっており、外務大臣は海外移住組合法成立時の幣原喜重郎である。浜口内閣は国際経済との整合性を取り戻すために金解禁政策に踏み切っており、金解禁によって生ずるデフレを克服するために緊縮財政を推し進めていた。外交政策も田中内閣の対中国強硬路線から世界との協調外交へ舵を切り直さねばならず、幣原としては巨額な資金を必要とする連合会の海外移住地の拡大に歯止めをかけなければならないと考えていたようである。

 そんなときに日本政界を揺るがす事件が起こる。浜口首相遭難事件である。浜口が緊縮財政を押し抜くために、軍の反対意見を押し切ってロンドン海軍軍縮会議を断行したため、右翼の反感を買い、一九三〇(昭和五)年十一月十四日、東京駅頭でテロに襲われたのである。急遽幣原喜重郎が代理首相になるが、幣原はここで内務省主導による連合会組織の路線転換をはかる。幣原が新しく海外移住組合連合会理事長に選んだのは、当時倒産寸前だった日本生命を立て直して注目を浴びていた平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)だった。

平生釟三郎宮坂国人

 あけて一九三一(昭和六)年二月、平生は思い切った転換を可能にするため、内務大臣が就任することになっていた会頭職を併せ持つことを条件に了承し、理事長に就任する。平生は移住地拡大を中止し、既設移住地を活用した産業振興方針を打ち出す。専務理事には梅谷に代えて海外興業の宮坂国人を抜擢した。
宮坂はブラジルでの経験はなかったが、海外興業ではフィリッピンにおけるマニラ麻の生産、ペルーにおける植民事業を手がけていた。また学生時代に平生家の家庭教師を務めた経験があり、平生としては使いやすかったのだと思われる。海外興業の宮坂を専務にすることは連合会理事であった海外興業社長井上雅二にとっても都合のよい人事であった。これでアリアンサ一派とこれを擁護しようとする梅谷を排除し、ブラジルにおける国策事業を一本化することができたわけである。

 この時、梅谷はすでにミナス・ジェライス州から五万ヘクタールの土地譲渡権を獲得しており、パラグアイでは鉄道および道路の完備したホセ・ファサルディ会社の四三二、〇〇〇ヘクタールの土地資産を三年年賦で買収する契約を済ませていた。しかし、平生新理事長はこれを連合会方針から逸脱した梅谷の独断であるとして棄却。また、鳥取移住組合救済のために五〇コントス(邦貨約二〇万円)を融資したことも梅谷の独断として専務更迭の理由とした。さらに梅谷が進めようとしていたアリアンサ四移住地統一案も白紙撤回してしまった。

 平生の政策は連合会の事業から金のかかる移住地造成を廃止し、既存移住地は金を生みだす産業基地に切り替えることであった。そうなると移住者本位の運動をすすめてきたアリアンサ・グループをどう納得させるかが問題になる。その後の展開から見ると、厄介なアリアンサを力づくで連合会直営地にしてしまうことだったようだ。

 時の運とはいえ、この劇的な幕切れはあまりに過酷だった。早くから自立した海外移住地をつくろうと努力してたどりついた海外移住組合法は田中内閣に奪われ、生き残るために全面的に協力してきた連合会からは、ここに来てまたもや奈落の底へ突き落とされてしまった。昭和に入ってからのアリアンサへのこうした否定的扱いは、右傾化する時代の権力者の根底に、キリスト教徒差別があったと見ることもできる。

 梅谷の辞任とともに輪湖も連合会理事を辞任する。本来なら四移住地統一案を実現し、必要資金をアリアンサへ持ち帰るはずだった輪湖は、全くの無一物でブラジルへ戻ることになる。永田稠はこの時の様子を昭和七)年の『両米三巡』のまえがきに次のように書いている。

資料9 『南米三巡』永田稠・昭和七年
  「まえがき」より

 輪湖君を丸ビルから送り出して、中央会に帰ってきた。命をかけて六年間、日本人ブラジル発展の第一線に立って活躍してくれた輪湖君が在伯同胞から悪く言われ、政府や連合会の連中からはへんな目で見られ、しかも一カ年費やして一厘の資金をも携行せずして、重ねて任地へ行こうと云うのである。私どもも全力を尽くしたとはいうものの、同志者を素手で戦場へ送らねばならぬのだ。西沢君はさんぜんたる涙をハンカチーフで拭いている。私はただだまりこくっている。時計の音のみがカチカチ聞こえる。邦家民族のために尽くすこともまた悲しいことだ。
 かくて輪湖君は「もう再び日本へは帰ってきません」と云うて四月何日かの船で南米に出発した。


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