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アリアンサの証言 3

新津竜一さんの 航 海 日 記 一九三四年

高木俊一

 これは一九九九年に発行された「アリアンサの声・第四号」(第一アリアンサ文化体育協会発行)に掲載された文章を転載したものです。
 船名および到着日は不明ですが、出航日から見て、船はさんとす丸ではないかと思われます。当時の船は神戸出航後、平均して四十五日くらいかかるのが普通だったようです。
 冒頭部分に「教養所長の注意事項あり」とありますが、教養所とは移住者たちが出発前に集結し、渡航の準備および移住先についての事情などの講習を受ける施設のことで、昭和四年の創設当初は「移民収容所」と呼ばれていたものが、この当時は「移民教養所」と呼ばれていました。戦後はさらに移住センターと名称を変更しています。

まえがき

 ここに新津竜一さん(高木尚恵さんのお父さん)がブラジルへ来られた時の航海日記がある。ポケット用手帳に万年筆で小さい文字が走り書きのように綴られている。しかも、くずし字が多くて大変読みにくい。或いは読み違えることもあるかもしれない。六十五年前の一移民が書いた航海日記を「アリアンサの声」に載せたいと思って書き写した。(高木俊一)


昭和九年十月三十日 晴。当日神戸港出航す、この日の事余生涯忘れざらん。老いも若きもはては児子も小学校生徒も……御機嫌よう……さようなら……の声……乗船のため朝五時より起きい出荷造りをす。八時半より水上署員により旅行券の検査あり終わりて教養所長の注意事項あり、十一時より漸次第四トッテ(突堤か)に向かう。
 午後四時抜錨。互いにかわすテープ色とりどりにて実に壮観を呈す。船次第にトッテイを離る。万歳の声しきりなり、テープも次第に切れる。ランチにて送れる者あり、歓呼の声、又人影次第に小さくなり、はてはトッテイ側の家屋のみ見えるばかり、又他の船舶のみ。西に向かい進む。愈々暮色蒼然たり。両岸の燈火実に壮なり美なり。

十月三十一日 雨。午前十一時門司港に着く。正午より上陸を許さる、二時ランチに乗り上陸、六時帰船す、一泊す。前日より波静かなり。

十一月一日 午前八時出航す、波静かなるも午後二時頃より玄界灘に入る。その時までは然程にもあらずが壱岐、對島四時頃左に見え、之が波影に没す頃より波静かならず船大いに動揺す。六時頃より船に酔う者しきりなり。皆床に伏す。前夜より又当日午後五時頃迄は甲板も賑やかなりしも夜七時頃よりは甲板には人影なし。波、益々荒し。昔、常陸丸の遭難せるを思えばいよいよ眠れず「オウド」(嘔吐)する者算し難し(算し難し=数えることがむつかしい)、船南下す。

十一月二日 曇。朝起き出づる者なし。皆船酔いして居るなり。波益々高し。朝食、昼食する者ほとんどなし。午後四時頃より波次第に弱くなりぬ。人皆波に慣れて来ぬ。然共夕食を取る者一室に十名位となり。其の後益々元気になりぬ。

十一月三日 曇。今日は船酔いしてる者ほとんどなし。明治節なり。心中にて大帝の御威をしのび奉り君が代を賀し聖寿万歳を唱う。波静かなり。コレラの予防注射す。

十一月四日 別に記す事無し。然れ共夕方より島影所々見る様になりぬ。陸、香港も愈々間近し。

十一月五日 門司港を船出してより五日目朝、香港に着きぬ。初めて見る外国の風景又珍し。物品を売りに来る支那人種々騒げど言葉少しも解せぬ悲しさ、語学の必要しみじみと感ぜ得ぬ、然れ共又面白きこと多々あり。上陸許されず。午後五時シンガポールへ向け出航す。

十一月六日 暑さは益々盛んに成りぬ。室内の暑さ……、甲板上の賑わう事しきりなり。
十一月九日迄、別に記すこと無し。然れども波上に飛魚の飛び立つのも珍し。

十一月十日 晴。為替相場〇・五弗=日本の一円。当地五〇……〈不明、ドルか〉。午前八時シンガポールへ入港す。十時より上陸を許さる。市街の賑わいは日本と変わり無し、然し一般建築物日本の普通都市の比にあらず。植物園並びに水源地(シンガポール全市に配給する水道)等を見物す。余等一家四名のみ。植物園に行きし時などの気持ち、云う様なく愉快なり。常夏の国の花を賞す。草木一として珍しからざるは無し。当市に於ける邦人の親切さ感じ入る。

十一月十一日 晴。前日に引き続きトッテイに諸商人商売に来たりぬ。言葉半分不明。当市は人種の「カクテル」とは良く云ったもの、実に世界人数あらゆる人種の寄り集まれる所なり。我が邦の人約三千人程ありと云う。
 午後一時十分出航す。シンガポールさらば……。対岸の美、シンガポールと大差なし、実に美観なり。午後五時全く水平線に没す、残るは波又波のみ。

十一月十二日 晴。暑さ愈々盛んなり。北緯五度位と云う。風強し。

十一月十三日 別条なし。時計三十分遅らす。神戸出航以来都合二時間遅れしなり。午後五時半頃より印度洋に入りしと云う。波少々高く風強し。鯨など時々見える(香港より)と云えどその影見ず。

十一月十五日 別条なし。明全軒(人名らしいがよくわからない)の命日なれば心中にて冥福を祈る。

十一月十六日 晴。十一時頃より島影か半島か見え初む。コロンボ港もいよいよ近し。午後六時愈々港に着きぬ。黄昏時にて街の風景は見えざれども夜景すこぶる良し。荷揚げに来る人夫之又黒人なり。セイロン島も間近きとの事。

十一月十七日 晴。早朝よりいずこの港と同様商人来船し物品を売る。之又黒人なり。午前十一時モンパスに向け出航。佛法最初の霊地なれば敬意を表し愈々さらば……暑さ愈々盛んなり。波静かなり。

十一月十九日 晴。船客慰安の為運動会を催す。午前八時二十分開会、午後四時各選手ベスト裡に(裡に=…のうちに)閉会す。長途の慰安には実に愉快なり。夜、船医上田憲一氏と共に月見を兼ね、氏の人となりし今日までの話を聞く。偉なり観つきず十一時を過ぎぬ。

十一月二十三日 晴。二十日より別に記すは無し。

十一月二十三日 午後二時二十五分 赤道を通過す。船慣例として(昔より行い来ると云う)之の時赤道祭を行う。生より初めての事にて実に面白く且又船員の真剣味うかがわるる。詳細は記さず。相変わらず暑く且又波静かなり。

十一月二十六日 晴。昨二十五日入港の予定なりしに潮流の都合により一日遅れて本日払暁(よあけ)モンパスに着きぬ、上陸を許さる。九時頃上陸。港に近き所は人家少なり、市街まで約二里(八キロ)ほど名も分からぬ樹木多なり且又風景佳なり(佳=とてもよい)。午後八時ザンジバルに向かい出航す。

十一月二十七日 晴。午前七時ザンジバル入港。上陸を許されず船にて陸を望む。
 午後二時半ダルエスサラーム(タンザニア共和国の港)に向かう。夕暮れせまる頃よりダルエスサラーム埠頭に近づきぬ、其の頃の陸の風景又佳なり。七時頃投錨す。暑さ強く夜も眠れず、風無く波静かなり。此の日、尚恵麻疹にて入院す。

十一月二十八日 晴。早朝より荷役人夫乗船す。いずこの港も同じく人夫皆黒人なり。半裸体にて素足なり、体全体黒く目だけ光る。此の日も上陸許されず。午後六時、暮色せまるダルエスサラームを後にベイラ(モザンビーク共和国の港)に向かう。波静かなり。少々の風なれど今晩は涼し。旅程三十日を過ぎぬ。

十一月三十日 晴。別に記すこと無し。風少しなれども波高し。船酔気分の者少々見受けらる。アフリカ東海岸を南に向かい進む。

十二月二日 日曜 晴。払暁五時ベイラ港外にて船は止まりぬ……何事?と尋ぬれば引き潮にて船進めぬと、午前十時着港上陸できず之の日は日曜にて荷役人夫来たらず、一日船は何事もせず泊せり。相変わらず炎暑なり。

十二月三日 月曜 晴。早朝より荷役人夫来船す。相変わらず黒人なり。午後二時出航の予定なるも荷揚げ終わらず加うるに引き潮にて船は出られず、ローレンソマルケスに向かい出航。(モザンビーク共和国、現マプート港)

十二月五日 晴。午後二時ローレンソマルケスに入港。種々検査(検査の部分空白なので推測)の末上陸を許さる(午後八時迄)上陸、動物園、植物園など見物。
 一泊の上六日正午ダーバンに向け出航す。此の頃より波は荒れくるい船酔いする者漸次増す。

十二月七日 午前十時ダーバン着上陸を許さる。市中を見物すること三回。二泊の上出航の所一泊にして八日午後八時アルゴアベーに向かう。

十二月八日 午前三時頃より何が原因せるか知らねども各室に腹痛を起こせる者数知れず、其の日の夕方になりて一層はげし。当夜は徹夜すれど九日朝頃には静かになりぬ。船客の約三分の二はかかりぬ。

十二月九日 午後二時アルゴアベーに着きぬ。沖に碇泊。上陸は許されども船側にて遠慮し上陸せず。
午後八時ケープタウンに向かう。此の頃より寒気少々加わる。

十二月十一日 十日夜は寒し。十一日午前八時ケープタウン着、九時半より上陸す。物価は相変わらず高し、市中見物。午後二時サントスに向かう。此の時、日本船に居りし人々帽子やハンカチを打ち振りて見送り呉れる。神戸出航より本港まで十二港に寄港すれど香港を除く他港の荷役人夫は全部黒人なり。いずれも素足に半裸体なり。
 船より離る(離=不明なので推測)折りは皆手を掲げ別れを告げ離るなど人情味あり。
*注(アルゴアベー(ベー=湾)とあるが、アルコアまたはアルゴマなどは北米内陸の地名で、ケープタウンの前ならばアグリアス〈現記アガラス〉岬のことだと思われる)

あとがき

 ここまでで終わっています。せめてサントス入港の情景を記して終わっていたらよかったのに残念です。
 最初、簡単に書き写せると思ったのですが意外と難しく、手間がかかりました。達筆のくずし字を読むだけでも大変なのに、ちょいちょいわからない字が出てくる。辞書を二冊も三冊も出して探したら、その字がまちがっていた、なんてことも度々。
 かなづかいは新かなづかいになおしました。
(例・船暈い=船酔い、廿=二十、卅=三十などです)
 参考までに書いておきますが、十一月一日の「昔常陸丸の遭難云々」とありますが、常陸丸は遭難したのではなく、ロシアの軍艦に沈められたのです。
 私がよく解らなかったところを直したり()注など、解説をしたりと、矢崎さんに大変お世話になりました。

(高木俊一)

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