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アリアンサ移住地と最近のブラジル事情

宮尾 進(談)
木村 快(記)

宮尾進(みやお・すすむ)/サンパウロ人文科学研究所長。アリアンサ生まれの二世。一九三九年(昭和十四年)、父親の郷里である長野県の親戚に預けられるが、太平洋戦争のためブラジルへ帰国できなくなり旧制松本高校へ進学、信州大学卒業後一九五三年(昭和二十八年)にブラジルへ帰国。

アリアンサ

 アリアンサはぼくもやってみたい問題なんですよ。アリアンサの移住者は一般の移住者と違って、一種の理想主義で移住した連中ですよね。だからぼくはアリアンサの連中に怒られるかもしれないけど、「大正デモクラシーのあだ花」だって言ってるんだ。臼井吉見の「安曇野」ともつながるんですよ。特にアリアンサをつくる主力になった日本力行会の連中は新宿の中村屋が援助してたんです。力行会は地方の中学を出た連中が中村屋のパンを売って資金稼ぎしてたんだ。だから中村屋の息子(相馬文雄)も力行会の青年でアリアンサに来てました。ぼくの家にいたんです。最後にはアマゾンに行って病気で死んじゃいましたけどね。死んでから、親父の相馬愛蔵が来て立派なお墓を建ててくれました。
 青年連中は新教のクリスチャンで、理想主義で入った連中だね。だから古い新聞見てるとね、あそこへ入った連中は駄目なんですね。銀ブラ移住と呼ばれたくらいで、荷物もすごく持ってきて、バイオリンだとかピアノだとかね。当時の日伯新聞の記者が言うには、住宅は立派だけどやってることは駄目だって。(笑い)
 岩波茂雄(いわなみ・しげお、岩波書店創始者)とアリアンサを創設した永田稠(ながた・しげし)が同郷でね、アリアンサには昭和初期の岩波の初版本が贈られて来てたんですよ。漱石全集なんかね。昔は第三アリアンサの図書館にあったが、いつか行ってみたら山のように積まれていて、みんな白蟻にやられてしまってた。

渡辺農場

 ぼくが育った渡辺農場は、昔、諏訪の殿様だった渡辺昭(わたなべ・あきら)という人が、信濃海外協会が第三アリアンサの土地を買った時に、何百町歩かの土地を買った。その渡辺伯爵が買った土地を力行会の青年訓練所としてただで貸すから開発してくれというわけで、力行会の青年訓練所が出来た。訓練所の所長としてうちの親父(宮尾厚、みやお・あつし)が来たわけです。それから後に青年が毎月来たわけですよ。その時に中村屋の息子も入ったわけです。
 訓練所というのは移住青年が一応ブラジルに慣れるためのところで、みんな独身で入って、そこでブラジルに慣れてから勝手に散らばるという形だったらしい。そこを出た連中が随分ユバ(弓場農場)へ行ったわけですよ。浜村利一さんとか箕輪勤助さんとかね。でも、今は何もないですね。この間、友達におれの生まれたところを見せてやると言って連れていったら何も残ってない。全く牧場になってしまっててね。渡辺御殿というのがあって、その裏に大きな木があったから、あれくらい残ってるかと探したけど、何もないですよ。
 それからうちの親父が渡辺農場を出てから住んでいたところへも行ってみた。昔は高い椰子の木が二本あったからそれくらい残ってるかと思ったら、これもない。竹内さんに案内してもらったんだが、ぼくの居たところは全部何もない。場所もわからなかったです。これくらいないとさっぱりして良いなと思っていたら、今度渡辺農場の記念碑が建つことになった。いまはミネーロというミナスから来たブラジル人の牧場になっている。彼も二十年くらい前に来ただけで昔の事はわからないと言っていたが、今度記念碑ができる場所を寄付してくれた。

金儲けの駄目な移民

 アリアンサ、チエテ、バストス、アサイとあるブラ拓移住地(国策でつくられた移住地)の中で、バストスは二世に政治家が出てるけどアリアンサは政治家は駄目。そのかわり、サンパウロ大学の藤森という先生が言ってたけど、博士と歯医者はアリアンサが一番多いと自慢してた。「コーヒーより人をつくれ」と永田の親父さん(創設者の永田稠)が言ったわけだが、そういう意味では学者は多い。しかしアリアンサ出身で金を儲けた奴はいない。(笑い)
 ぼくは今でも覚えてるけど、戦後八年目に日本からブラジルへ帰ってきて、アリアンサへ行って村を案内して貰ったことがあるんですよ。でかい家で傾いてるんですよ。中へ入ってみたら薄暗いんだけど、大きな机があって一人だけ年寄りの人がいて、大きな机の上に写真がある。ふっと見たらこれがサルトルの写真なんだ。アリアンサのこんなとこでサルトルなんてどんなことかと思って聞いてみたら、そのじいさんが「いやー、この人の書く物ははなかなか面白い」なんて言うんだね。そういう連中がいたんで、とにかく百姓したことないような人ですよね。だから百姓としちゃあまり立派な百姓も出来なかったし、金儲けもできなかったという連中が多いんじゃないですか。
 ですからいわゆる文芸というのはあそこから始まってますね。岩波菊治(いわなみ・きくじ)は長野県諏訪の出身で島木赤彦の直弟子です。俳句の佐藤念腹(さとう・ねんぷく)は高浜虚子の愛弟子。そういう連中が移住してきて入ってる。一九二六年頃入ってるんだけど、その初期からあそこで集まって文芸を始めたわけです。その影響で、子供のとき来た準二世が俳句や短歌やるようになった。だから非常に短歌俳句は盛んなんです。ただ、戦後来た連中はなかなか入らないから、子供の時来た連中が最後なんだけど、彼らももう七十才すぎてますからね。だからいわゆる文芸というのはアリアンサから起こった。そういう意味じゃ非常に影響をつくる訳ですけど、金儲けは駄目だな。

バストスとアリアンサ

 青年の移住者が一番多かったのはやっぱりノロエステ線です。特にバウルーからアリアンサに至る間に集中してた。みんなが集まるのはアラサツーバ、リンス、バウルーの三都市くらいですね。
 アリアンサとバストスでは気質もだいぶ違います。バストスは今出稼ぎで若い人はいないが、金を送って豪邸が建ってます。それでバストスの中心にちょっとした街が出来てる。そのため、インフレを抜きにして五年間で十倍くらいに土地の値段が上がった。だから、そこに住んでるブラジル人は家が建てられなくなってる。新しく行った人はバストスの街の中じゃ土地が買えない、家も建たない。出稼ぎに行って帰ってきてくれれば、金もたまり、地域社会も活性化するという期待があるんだけど、もうバストスに帰れないわけですよ。逆に出て行っちゃう。
 アリアンサとミランドポリス(アリアンサと隣接する小都市)の関係は、もともとアリアンサがあって、そこに鉄道が通って、人がうのがあるわけです。今は自由になったわけです。つまりごく最近です。
 三世が日本語を話さないのはそれとは別の問題で、今は親が二世の時代でしょ。むしろ二世の親たちは日本語全然習わなかったから、三世の子供には習わせたいというのが出てきている。一世の親たちは敗戦を認識するまでは日本に帰るつもりがあったから、日本に帰った時に子供達が落ちこぼれにならないようにということで、敗戦になるまでは日本語教育に力を入れて来たんです。それが負けたという事がだんだんわかってきて、焼け野原になった日本に帰っても仕方ないということで、初めてここに永住しよう定住しようという覚悟が出来たわけですね。それからですよ、子供を苦労しながら上の学校へ出して………。
 戦後五十年代からは大学へ進学する日系人が増えてきた。州立大学の総合試験の合格率は四十六年くらいまでは五%くらいしかいない。それがだんだん上がってきて、一九七八年、移民の七十周年の時は合格者の十三%が日系人。それから徐々に上がってきて九十二年くらいがピークで十七%くらいまでいった、それがこの二、三年がたがたっと落ちて十三%くらいに落ちている。これは何なのだろうか、まだ調べてないですけど、出稼ぎに行っちゃってるのか、あるいはブラジル人並になってきて学校へ行ってもしょうがないということになってるのか。確かに不況が十年続いて大学出たって職がない。工学部出たって職がない人がいっぱいいる。それにしてもサンパウロ州の人口比からすると日系は三%、それで十三%が合格というのは高い。

サンパウロ市への集中

 ブラジルは十年ごとに人口調査をするんだけど、そのとき皮膚の色で調査するのがひとつある。白、黒、半黒、黄色と。学歴からいくと黄色が断然高い。白も高校以上の学歴は五%くらいしかいない。ところが黄色は二六%が高校以上の学歴を持っている。それと比例して所得率も黄色が断然高いです。黄色というのは韓国、中国もいるけど、人口からいったら日系が多いですから。
 そういう意味では、戦後みんな苦労して社会上昇を目指して、みんな田舎から移動して来ちゃったわけです。サンパウロ近郊か市内にね。それは奥地は非常に教育設備が悪い。先生もろくなのがいない。これじゃ駄目だと、終戦になってからサンパウロ近郊の野菜づくりや、市内のクリーニング屋になって行く。
 一九五〇年代は二千五百軒の日系のクリーニング屋がありました。だから、あの頃はチントラリヤ(洗濯屋)というのが日系人の代名詞だった。洗濯屋たって手で洗ってアイロンひとつあれば家族労働で出来るわけだ。子供たちみんなに手伝わせて、それでみんな子供を大学まで出したわけです。一時はもう市内二千五百軒のほとんどが日系だった。ペルーでは床屋だった。これもハサミだけあればいい。女では美容師。手先が器用ということもあるだろうが時計の修繕屋も多かった。そういうことで一九四五年からの奥地からの移動というのはすごいね。今(日系人は)百三十万いるけど、その内の三十五%くらいはサンパウロ市内に集まっちゃった。

高学歴と文化継承の問題

 最初はみんな子供を大学に出すために苦労してきたけど、子供たちが大学出てホワイトカラーで街で就職すると、親は農業の跡取りがいないので農場を売って子供を頼ってサンパウロへ。農業移住で来たが、統計見ても戦争が始まる一年前には九〇%が農業者だったのが、一九五八年の移民五十年祭の時に実態調査をしたら、その時はまだ六〇%が農業者だった。それから三十年経った一九八八年に調査したら一〇%ちょっと。だから三十年間にばーっと減っちゃったんです。しかし生産量が減ったかというと、それは出てこないけど、昔は小農で十町歩くらいだったのが今は機械化農業で規模が大きくなってますから、生産量からいうとそう減ってないんじゃないかという気がする。野菜作りだって奥地で大きくやってね、その頃出ていった人間の土地を買って。
 農業者が減った代わりに都市でのホワイトカラー、それから技術者とか専門職の連中が増えた。もっとも今は何年も前から兄弟や親が日本に出稼ぎに行っている。だからかなり前までは大学出て、仕事してから出稼ぎに行ったが、今は高校出たら簡単に行っちゃう。だから、ぼくはエスペランサでおばさんたちが話してくれと言うから、「最近日本語も日本文化も、二世三世が忘れちゃってると言うが、皆さんがそうさせたんですよ」と言うんです。日本語なんかどうでもいい、とにかく社会上昇のために高学歴ということでやらせたわけでしょう。その結果、高学歴高所得を生んだ。だからブラジルを構成する人種の中では、日系は断然高学歴であり高所得を得ている。その結果として日本語を忘れ、日本文化も希薄になってきたとしたら、それは皆さんがそうさせたんだ、とぼくはこう言うんだけどね。
 ブラジルの社会でブラジル人として教育させることは、昔一世は溶け込まないとか言ったけど、今は小さい時からブラジル社会でブラジル人と(一緒に)教育し、高い学歴になるほどブラジル人と差別感もなくなるし、全く文化的に同じ人間になるんだから、急激に同化ということがおこってくるのも当然だ。

人口調査が語るもの

 ぼくらの調査では一世の混血は六%しかないが三世の混血は三四%くらい。それが四世になると六二%が混血。だから四世は混血の方が多い。今の調子で行くと六世になると百%混血になるんじゃないかという予想。と同時に結婚のカップルも平均して四六%が非日系との結婚のカップル。地域によって随分違うが、アマゾンへ行くと特に日系の若い女性なんかいない。みんな独身で入ったわけですから。だからアマゾンでは六二%が混血の日系人です。南に下がってきて日系人の多いところはやっぱり少ない。
 調査する前はサンパウロ市内が一番多いんじゃないかと思っていたが、かえって平均よりちょっと少ない。一番少ないのはパラナ州(サンパウロ州の南の州)。いわゆる北パラナ、あそこは今でも非常に日系人意識が強くて、あそこ行くと二十何%しか結婚のカップルがない。逆にあそこはいまだに非日系に対する差別が大きくて、われわれが学生使って調査した時に、サンパウロ大学の社会学部か人類学の学生を調査に出したら「日系人の調査をするのに何で非日系をよこすんだ」。でも二百人近くの学生を使うのに日系人ばかり集められないですよ。社会学とか人類学やってる学生を集めてやったんですから。
 サンプリング調査したんだけど、サンプリングというのがわからないからまた文句言われてね。ぼくらはブラジルの地理統計局がランダムに拾い出してくれた地域を調べた。その中に住んでいる人間全部調べて、一人づつ「あなたの血の中に日本人の血がどこかに入ってますか」と聞くわけです。そしてそこから推計したわけです。だから調査地域からはずれた地域は行かない。そうしないと結果としての誤差が多くなる。そうしたらまた電話がかかってくる。「調査員が来たけど、俺のとこを調べないで向こう側の日系人があまりいないとこ調べてる。こっち側にいっぱいいるのに、そこ調べないでどうしてわかるか」と言うわけだ。サンプル地域なんだから日系人の多いとこ選んで行ってる訳じゃないんだからと説明してもわからない。だから調査の結果を発表したらに変わってきてる。インディオについても戦争が終わるまでは強制的な同化政策をとっていたが、FUNAIというインディオ保護局があって、伝統的な文化を残すべきだということでやってる。今度大統領になったカルドーザはパン・アメリカン日系人大会で基調報告をした社会学者ですが、「それぞれの民族系統の連中がそれぞれの民族文化を継承して、それでブラジルというひとつの国に統合していくことが必要なんだ」という言い方をしている。だが、そう言われる時代になってみたら日系はもうガタガタです。
 日系はおとなしい方ですよ。ぼくの甥がいるんですが、大学の友達でイタリア系の家に行ったら一家全部集まって三十人くらいいるんですが、スパゲッチ食べて勝手にわあわあ言って何言ってるかわからない。ところが友達が「お前も何か言え、言え」と言う。さすがに呆れて帰ってきたということがありましたが、とにかく何でも良いから主張しろ、というのがイタリア系。移民としてはイタリア系が断然多い。
 ドイツ系というのは歴史が古いから子孫を入れると多いが、ドイツ系は一八二四年から始まったことになっている。だからもう一七〇年経っている。ところが実際に移民として入ったドイツ系というのは二五万人くらいで日系と変わりないですよ。口から先に生まれたようなのはラテン系で、ドイツ系はわあわあ言わない。
 やっぱり外国人に侵された国というのは強いですよ。その意味ではブラジルで見ていても日系より韓国人の方が強い。だから日本人が国際性がないと言われるのも仕方がない。経験がないんだもの。
 問題は、日系人に社会学、人類学、歴史とかやってるのが少ない。この間、サンパウロ大学の女の先生で、一人だけ大学の歴史学の講座で日系社会を取り上げて講義したけど、日系の学生は一人もいなかった。だからわれわれのような貧乏な研究所に来ようなんて人はいない。養成所もやってみたけど一人も来なかった。後継者がいないからわれわれもこれでおしまいかと言っている。(笑い)

 この文章は一九九五年五月八日、木村がサンパウロ人文科学研究所を訪問した際、宮尾氏からうかがった話を木村がまとめたものである。一九九六年に再訪した際、一応文章をチェックしてもらったが、文責はあくまでも木村にある。
(木村快)


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