HomeHome
移住史ライブラリIndex | 移住年表 | 移住地図 | 参考資料

コムニダーデ・ユバの生活

祈る 大地への感謝

朝六時のカフェ、十時のアルモッソ、午後二時のカフェ、夕六時のジャンターと一日四度、準備ができると角笛が鳴る。訪問者もふくめて広い食堂で一緒に食事をし、雑談を楽しむ。日本人は食事をするとき、「いただきます」と言う習慣があるが、ここではただ一言、「黙祷」という言葉を合図に一分間の黙祷を捧げる。なき騒いでいる子どもも、このときだけはぴたりと泣きやむ。

働く バレリーナたちのご出勤

 果樹、野菜、家畜、養鶏、養魚、シイタケの栽培などが行なわれている。牛乳や野菜、鶏卵など、日常の食料は自給できるように、それぞれの担当者がプランをたてて取り組む。食事のメニューは炊事当番が工夫をこらして決め、日曜日にはケーキやシュークリームなど凝った手製のお菓子が作られる。洗濯当番は独身男性や訪問者、長期滞在者たちの寝具、衣類などを毎朝まとめて洗い、午後小学生の女の子たちが取り込む。男の子は野菜畑の手伝いである。

踊り、歌う

 ユバではバレエ、演劇、合唱は余暇活動ではない。欠かすことのできない生活の一部である。各地から上演を依頼されると、ボランティアとして出かける。裏方を含め三十人近くの公演団になる。バレエ団を送り出しても農場経営に支障を来さないように、留守を守るグループが奮闘する。
 一九七八年と一九九一年には日本青年団体協議会の招きで日本公演を行っている。

テアトロ・ユバ (劇場)

 木造ながら間口10メートル、奥行き12メートルの本格的な舞台。客席は拡張すれば千人まで収容することができる。クリスマスには村人はもちろんサンパウロや日本からもやってくる。ユバのコーラスとアラサツーバの室内弦楽団カメラッタとの合同音楽会も毎年アリアンサ近郊の聴衆を集めている。1994年にはアリアンサ創設七〇周年事業として、ブラジル訪問中の現代座による「もくれんのうた」が上演された。

学ぶ ユバ図書館

 専門家が訪ねてくると、それぞれの専門の話をみんなで聞く。演劇の話を聞くこともあれば薬草の講義が行なわれることもある。ユバの図書館には一万冊の蔵書があり、無料で近在の人々に貸し出しもする。図書館はユバの日本語学校の教室でもある。毎週、四クラスに分けて授業が行なわれている。小さいながらインディオの土器、装飾品を収集したサトウ・オサム記念博物館もある。

スポーツ

 弓場勇がブラジルに野球を普及した草分けだったこともあり、現在もユバには野球チームと女子ソフトボールチームがある。そのほか柔道、陸上競技、テニスやピンポン、なんでもやる。
 趣味を兼ねてパラナ河に釣りに出かける者もいる。獲物はその日のユバの食卓に並べられる。

泥にまみれて遊ぶ

 アリアンサには川もあり、森もあり、遊び場には事欠かないが、ユバの子どもたちはことのほか泥遊びが好きなようだ。
 周囲の社会はすべてポルトガル語だが、学校へ上がるまでは日本語の中で成長する。学校へ上がると当然ポルトガル語になるが、日本語の生活感を失うことがなく、日本人とのコミュニュケーションにも不自由しない。現在ブラジルの子どもと日本語で語り合えるのはユバだけだろう。

ユバの墓

 アリアンサ墓地の一角に写真のようなモニュメントが異彩をはなっている。ユバの墓である。創設以来の多くの先輩がここに眠っており、毎年11月2日、日本のお盆にあたる慰霊祭の日には、農場全員が出かけて花を飾り、賛美歌を歌う。
 夕暮れ時、この墓に向かうと、アーチを通して大地に陽が沈む設計になっている。ユバに移住し、ブラジル美術界で活躍した彫刻家・小原久雄の作品。


Back home