ハンセン病国賠訴訟のその後 1

夢から覚めて  阿部智子さんの話

 裏切られた思い

 母は一年に一回か二年に一回、お金ができると隠れるようにして会いに来てくれました。田舎では外出する格好をすると「どこへ行くの」と聞かれるからです。たいていは姉たちのとこへ行くと言って家を出たようです。
 母は「小公女」の話をよく覚えていて、「セーラのように、いくら悪い環境にいてもそれを楽しい場所に変えていかんとなーえ」と言っていました。
 最初に母が面会に来て帰るときのことです。今はなくなりましたが、面会者が出入りする小さな通用門がありました。面会者はその百メートルばかり手前にある巡視小屋で木札を貰ってから来ます。帰りにはまたその巡視小屋で木札を返すのです。
 巡視というのは患者が逃亡しないように見張る職員のことです。当時、四人か五人いました。療養所は刑務所のように高さ二メートルを超えるコンクリートの塀で囲まれていました。その外側には深い堀があって、塀を乗り越えても逃げられないようになっています。その堀が浅くなると、すぐまた深く掘っていました。さらに監視する職員がまわっているのです。
 そのときは人通りもなく、門の所にも誰もいなかったので、何気なく母を送ろうとして一緒に外へ出ました。巡視小屋の近くまで来たとき、一人の巡視がわたしに「ちょっと」と声をかけました。見ると、入所したとき、親切に荷物を運んでくれた巡視さんでした。あの時の優しそうな人だと思ったときでした。
「あなた患者さんよね」
「はい」
「患者さんはあそこから出ては行けないんだよ。すぐ帰んなさい」
 まるで人が変わったような厳しい声です。優しい人だと思っていただけに、少女のわたしにはショックでした。ああ、ここは本当に収容所だった。もうここに入ったらおしまいなのだと思いました。


 左手の傷

 ハンセン病を引き起こす菌は、結核菌と同じ種類の菌だそうです。ハンセン病の特効薬と言われるプロミンという薬ははじめは結核の薬として開発されたのだと聞いています。同じ性質の菌でも結核菌は体の中の暖かい部分に定着するため、内臓が侵されるのですが、ハンセン病の菌は身体の冷たい部分に定着するので、顔や手足の先端を侵すのです。しかしハンセン病の菌は結核菌に比べても伝染力が弱く、明治以来、ハンセン病療養所で働く職員に感染したという例はないそうです。
 ハンセン病のつらいところは、病気が治っても後遺症として手足に感覚の麻痺が残ることです。指先や足先の感覚が麻痺すると、実は生活面でいろいろ不自由なことがあります。痛みを感じないので、わたしたちはよく怪我をします。怖いのはハンセン病より怪我をすることです。療養所内の診療棟でも、ハンセン病の治療より外科の治療の方が多いのです。それから、街にある自販機にコインを入れるのに汗をかきます。駅で切符を買うのも一苦労です。
 わたしの左手首には今でも大きな傷あとがあります。すぐ皮膚が割れて傷になります。これも、感覚の麻痺が原因でなったものです。
 まだ、療養所に来る前のことですが、ちょっとしたしこりがあったので、家にあった油薬を塗って、よく浸透するようにと火鉢にかざしていたんです。ところが、麻痺があるものですから、熱さがわからず、気がついてみると水ぶくれができていました。子どもなものですから、あわてて今度はお風呂に使う硫黄成分の薬湯をつけたのです。その薬湯は昔から皮膚病に効くと言われてうちでも使っていたものですが、それをつければ治るだろうと思ったのです。ところが薬湯に含まれる硫黄のために、かえってただれがひどくなってしまいました。
 わたしは子どものころから跳ね回ってよく怪我しては叱られていましたから、母に見つからないように、包帯を巻いて隠していました。けれどすぐ見つかってしまいました。皮膚は黒こげ状態でした。このままにしていたら手が腐ってしまうと、母はあわてました。しかし、悲しいことに、病気を隠しているものですからお医者に行くことができません。結局、母はかみそりでわたしの腕の黒く焼けた皮膚を削ることにしました。
 わたし自身は痛みを感じないので、目をつぶっていましたが、今思うと、母はどんな気持ちでわたしの皮膚を削ったのだろうかと心が痛みます。普通の病気として扱われていれば、こんなことは考えられないことです。社会的に隔離されると言うことは、実はただ法律的な問題ではなく、看護されるべき病人が、人から差別されることを恐れるという、信じがたい非人間的な状況に追い込まれると言うことです。