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アリアンサと信濃海外協会

木村 快

1 失われた歴史

  移住を扱わない日本近代史

 わたしの手許に一冊の歴史年表がある。歴史学研究会が編纂した「日本史年表」(岩波書店・一九九四年刊)である。わたしの仕事で使うのには大変重宝な年表だが、ただ、移住問題についてだけは全く役に立たない。満蒙の植民支配機関であった南満州鉄道株式会社の設立や朝鮮における植民支配機関であった東洋拓殖株式会社の成立については載っているが、そのほかはブラジル移住は云うにおよばず、アメリカ移住、満蒙移住などに関係のある歴史事項は全くと言っていいほど載っていない。

 ブラジルには現在百四十万人の日系人が存在するが、そのルーツを探ろうとしても、一九二〇年に寺内内閣が組織したブラジル移住のための国策会社・海外興業株式会社の設立も載っていないし、ブラジル移住を完全な国策にした一九二七年の海外移住組合法の成立も、ブラジルに最大の移住地を開設した海外移住組合連合会のブラジル現地機関「有限責任ブラジル拓殖組合」(通称ブラ拓)の設立も載っていない。特に海外移住組合法は国策移住を決定的にした法律だが、その結果何が起こったかはわかっていても、この法律の成立経過および、本来何を目的とした法律だったのかを語る資料は抹消されたままである。ブラジル移住史でもこの部分は全く不明のまま今日に至っている。

 中国残留孤児で知られる満蒙移住の経緯もこの年表からはたどれない。満蒙移住は日露講和条約後、政府が南満州鉄道株式会社(通称満鉄)を設置したときから構想されていた問題である。一般にはブラジル移住のための法律と思われている海外移住組合法も、実は満蒙移住のための下準備だったと思われる。日本政府は一九三二(昭和七)年、満州国を建国するとともに武装移民による弥栄(いやさか)村、千振(ちふり)村、瑞穂(みずほ)村を矢継ぎ早に開設していくが、こうした満蒙移住をすすめる上で、各県に組織された移住組合が重要な役割を果たしているはずである。また、一九三七(昭和一二)年には海外移住組合法が改正され、海外移住組合連合会は日南産業株式会社を設立し、東南アジアでの資源開発、移住地建設も手がけている。

 そして、一九三六(昭和一一)年八月には広田内閣が満蒙への二十年間百万戸移住計画を発表する。そして、満蒙開拓青少年義勇軍のように青少年まで巻き込んだ侵略的な満蒙移住をおしすすめるが、この年の年表にはベルリン・オリンピックで前畑秀子が金メダルを取ったことは載っているが、大悲劇のスタートとなった満蒙移住開始は載っていない。つまり日本の近代史にとって移住はなかったに等しいということである。見失ってはならない歴史的事実を、文化として継承するのが歴史学の役割であるはずだが、残念なことである。

  長野県から見たアリアンサ

 アリアンサ移住地から指摘された歴史資料とは資料1資料2であるが、これは一九九七年に発行された、長野県の歴史についてのもっとも新しい歴史書である。このコラムが指摘するように、長野県は満蒙移住者を最も多く送り出している県である。満蒙(まんもう)とは、かつて日本が「満州」と呼んだ中国東北部とそれに隣接する内モンゴル(蒙古)地方を合わせた地域のことを指すのだが、長野県では文字通り村を二分して「満州」に分村をつくった大日向村や富士見村のような例もある。

 日本人からみれば無責任な満蒙移住への批判であり、別段気にすることもない歴史の記述のようだが、その発端がアリアンサ移住地建設にあるとなれば、アリアンサの人々からすれば無視できないだろう。アリアンサ側が憤慨するように、この記述はたしかに送り出した人間への配慮を欠いている。長野県にとっては過去の歴史かもしれないが、アリアンサは現存する移住地であり、アリアンサには血のにじむような歴史がある。そして現在、アリアンサからも多くの人々が日本へ働きに来ているのである。

 この文章を素直に読めば、次のように読める。
 「満蒙の悲劇を生みだしたのは信濃海外協会の排他的な郷党的親睦思想に原因があり、実は郷党的親睦思想で建設したブラジル信濃村(アリアンサ移住地)が成功したため、長野県は自信を持って満蒙にもアリアンサと同方式の一県一村構想による分村建設を提唱し、ついに国策の中にまで押し込んだ。この排他的建設思想が中国残留婦人・孤児問題を引き起こした。つまり、アリアンサ移住地は長野県が同郷同国人のために建設した移住地であり、満蒙における分村移住(大日向村など)の始まりである。それはすでに大正八年の中村国穂(なかむら・くにほ)の信濃村提唱からはじまっていた」……と。
 だが、アリアンサ移住地が長野県の郷党的親睦思想によって建設された移住地であるとか、一県一村構想による分村移住のはじまりだったという記述は、アリアンサ側からすれば黙ってはいられないだろう。当時、とかく郷党的な集団をつくりがちだった日本人移住社会にあって、アリアンサ移住地は周囲の反発を受けながらも「自治と協同の理想」を掲げ、全県から入植者を集めて注目を浴びた移住地だからである。その運営も組合方式によるものであり、当時としては珍しい選挙によって選出された役員が運営に当たっていた。

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