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アリアンサをたずねて 3

 弓場農場

 それから、私達の車は幹線道路を走った後、「コムニダーデ・ユバ」という看板でわき道に入り、弓場農場へ到着する。暖かい出迎えを受け、永田さんに紹介されて建物の中に入った。そこはまるで私の家からちょっと離れた田舎へやってきたと錯覚しそうな一昔前に建てられた素朴な平屋の農場で、公民館の集会所のような広いワンルームの屋内には、大きなテーブルと自由に座れる椅子が置いてある。
 数人の日本人?、いや、やはり日系人というべきか…子供からお年寄りまでが、家族関係はわからないけれど、みんな自由に出入りしている。弓場農場には約八十人が共同生活しているそうだ。部屋の片隅には大きなテレビがあり、日本からの衛星放送を流している。はるばる日本からやってきたと名乗るのがはばかられる感じであった。
「ここは、もしかして日本なのでは……」
 そして、にこにこと応対してくれた矢崎正勝さんと、ひとしきり話しをした後、われわれが泊まる部屋を案内してもらう。それは、農場の敷地に建てられた小さな建物で、しばしば訪れるお客さん用の宿舎のようでもある。その中に入って驚いたのは、部屋の窓にカーテンはあるものの、ガラスが入つていないということだった。もちろん入り口の戸には鍵なるものもあるはずはない。
「パスポートや貴重品はここに置いておいても大丈夫なの…?」
 サンパウロ市内では、強盗、スリ、引ったくり、など日常的にあると聞かされ緊張していたから、弓場農場の大らかさには、かえって驚かされたのである。部屋に荷物を置いた後、弓場農場内を見学させてもらう。
 まず、敷地内にほとんど出来上がった一軒の家を見に行った。それはアリアンサ移住地の生みの親の一人、北原地価造の家を移築再現したもので、輪湖俊午郎の家の解体した木材も同時に使ってあるのだという。中に入るとその一室が図書室になっていて、多くの本が並べてあった。
 北原地価造は玄関のテラスで、いつも移住者たちの相談事を聞いていたという。当時の様子が具体的に目に浮かんできそうである。それから農場に出てみた。そこにはグァバの果樹園があって、みかん程の大きさに実ったグァバの実がいくつもなっていた。それは弓場農場の大きな収入源らしい。次に、建物の周りを回ってみると、大きな屋根の下に椎茸を栽培した原木が積み重なっていた。それはまるで、「ここは日本かな‥‥」と思ってしまう光景だった。
 それから、弓場農場が誇る弓場バレエ団の手作り劇場を見る。客席からステージ、舞台裏と一周した。そこには素朴さと、たくましさが存在している。高度に専門化分業化された都市の劇場を見慣れた者にとって、この劇場には手作りの人間らしさがあり、見るものの心を動かさずにおかない。
 農場内を見学しているうちに、日も暮れてきた。台所から胃袋を刺激するいい匂いが漂ってくる。いつの間にか、食堂には沢山の人が集まってきて、夕食の料理がテーブルに並べられていた。
 農場主の弓場哲彦さん、最長老の箕輪勤助さん、矢崎さん等が、私たちを歓迎して集まってくださり、一日の糧を神様に感謝して和やかに夕食会が始まった。テーブルの上には、海苔巻き寿司に味噌汁、醤油、椎茸と大根を煮たおかず、等、等が並べられていた。またもや「ここは日本かな…」である。
 弓場さんが、とっておきのピンガと称するお酒を注いでくださった。そして白い長い髭を蓄えながらいつもにこにこしている九十歳の勤チャンこと箕輪勤助さんが、移住地でのおもしろい昔話をしてくださったりするのを聞きながら、いつの間にか夜も更けていった。
 翌朝、農場の朝が早いのか、私たちの起きたのが遅かったのか、とにかく外から聞こえるクラリネットの音で目が覚めた。誰かがクラリネットの練習をしていたのである。顔を洗いに外へ出るとなんとも言えない、いい匂いがしてきた。パンの焼ける匂いである。早速、私の胃袋は準備体操をはじめた。「グルグルッ、グルグルッ‥‥‥」
 テーブルに着くと期待していたとおりの、お・い・し・い・焼き立てパンとミルクとオレンジジュース等が置いてあった。既に、農場のみんなの朝食は済んでしまったようで、食事をするのはわれわれ客人だけのようである。

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