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全て手作り 何でもありのユバ・バレエ

矢崎恵子

矢崎恵子 一九四四年ユバ生まれ。バレエ団創設時のメンバー。現在は主に炊事係を担当しているが、母譲りの器用さと旺盛な探求心で、パン、ケーキ、チーズ、漬け物、豆腐作りなど改良や新食品作りにも意欲的に取り組む一方、ユバの美容、理容師でもあり、衣装制作係でもあるマルチタレント的な働きをしている。

自然発酵のパン作り 私たちヤマの人は、小さいときから踊り、歌、芝居、ピアノと知らず知らずのうちに慣れ親しんできました。毎年のクリスマスの舞台も当たり前のように思っていました。現在の場所に移ってきてからも、ない知恵をふりしぼって頑張りました。
 そんな時にやって来てくれたのが、バレエの先生、小原明子さんと彫刻家のご主人、庄さん(小原久雄)でした。ヤマにバレエの先生が来るなんて夢のような出来事です。美人で繊細で、魅力あふれる人でした。本当に嬉しかったです。みんな夢中で、どんなに忙しくてもレッスンを欠かしたことはありませんでした。もう本当に夢中だったのです。こんな田舎の何もないところに、はたしていつまで居てくれるのだろうという思いがありましたが、庄さんも明子さんもずっと居てくれたのです。そして、二人から私たちは本当にいろんなものを貰いました。今も貰い続けています。

 私は、始めから自分はバレエが下手だと気づいていました。足は内股、付け根は開かない腰は硬いしまるっきり良いところなしです。でも、明子さんはどんな人のこともよく見ていてくれて、良いところがあるとすごく褒めてくれるのです。「ほら、恵子のように空中で止まるようにジャンプするの。恵子もう一遍やってごらんなさい」なんて言われると、嬉しくなって二度も三度もやって見せたものでした。クラシックあり、モダンあり、日本調もあり、何でもありの明子さんのバレエは、ヤマに一番向いていたのです。舞台の発表は本当に嬉しく、楽しみなものでした。自分たちでも信じられないような力が出るのですね。今考えてもみんな本当に上手だったと思います。一つ一つのシーンが目に浮かんできます。
 バレエの練習も大変だったけれど、その衣装作り、セット作りも本当に大変でした。本番ぎりぎりにセーフは良い方で、アウトの時もありました。闘牛場のセットがまだ仕上がっていないまま幕を開けたこともあります。セットを描いている庄さんは堂々としたもので、今日はこのままでいいよと言います。たしかにそのままでも本当にいいセットだったのを覚えています。
クレープペーパーと鶏の羽で作った白鳥の衣装(前中央・恵子)  衣装はもちろん手作り。鶏の餌袋をほどいて、真っ白に晒し、色粉で染め、裁断して、何もかも手作り。白鳥の衣装のチュチュの部分はクレープペーパー、羽は、鶏の羽。誰かが「雄鶏の胸の部分がきれいだ」と言うとすぐに情報は行き渡り、素晴らしい衣装ができあがるのです。靴もみんな自分たちで工夫しました。明子さんは、振り付けが本当に大変だったと思いますが、私たちのために沢山の作品を創ってくれてブラジル中あちこちの町に公演に出かけて行きました。

 バレエをし始めてから、もう四十五年が経ったのですね。私は、今はもう足が痛くて踊れなくなってしまいましたが、衣装だけは、縫わなかった年は一度もありません。ヤマのバレエが多くの人達を楽しませ、自分たちも楽しみ、これからも頑張って続けていってくれることが私の楽しみと夢です。みんな頑張って、私も頑張ります。

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