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アリアンサと信濃海外協会

木村 快

3 信濃村構想とアリアンサ構想

  中村・永田・輪湖の関係

 「長野県の歴史」に述べられている中村国穂(なかむら・くにほ)の信濃村提唱(資料1参照)との関係を見てみよう。

 アリアンサ構想は一九二〇年六月に日本力行会長の永田稠がイグアッペの中心移住地レジストロで輪湖俊午郎と出会ったことからはじまったと言われており、中村、永田、輪湖の関係を見る必要がある。この三者の動きは一九一七(大正六)年に設立された国策会社・海外興業株式会社(以後、海外興業と省略)と密接な関係があるので、海外興業とのかかわりも見る必要がある。また、聞き慣れないブラジルの移住地名がひんぱんに出てくるので、資料4を参照して欲しい。

 中村国穂は長野県の視学(現在の教育長)までつとめた人物で信濃教育会の中心人物であった。山国で農地の少ない長野県では、早くからアメリカへの出稼ぎがあったが、全体としては移民後進県と言われていた。信濃教育会は大正三年ころから「海外発展の教育」を掲げており、中村自身、大正五年から移民組合の募集代理人となり、海外興業が設立されてからは海外興業の代理人として、多くの長野県人をブラジルへ送り込んでいる。

 信濃海外協会をつくった永田稠はアメリカ・カリフォルニアで日系農家を対象とした雑誌「北米農報」を発行し、日本移民排斥の渦中で北米日本人中央農会を組織した経歴を持っている。帰国したのは大正三年十二月で、日本力行会二代目会長に就任するためであった。帰国早々の大正四年に、信濃教育会から海外事情の講演を頼まれ、これを機に信濃教育会と関係を持つようになる。日本力行会は海外に青年を送り出すことを目的とした団体であったから、以後、海外発展を唱える信濃教育会との関係は緊密になっていく。

 アリアンサ移住地の建設計画をつくったのは輪湖俊午郎だが、彼はブラジル邦人社会最大の発行部数を持つブラジル時報の編集長であった。この新聞はブラジル移民組合が創設したものだが、移民会社の宣伝機関になることを懸念したサンパウロ総領事の松村貞雄がブレーキ役として輪湖を送り込んだといういきさつがある。輪湖は出稼ぎ移住の問題点を指摘し、定着移住の必要を主張していたからである。

  海外興業とイグアッペ植民地

 ブラジル時報が創刊された一九一七年の十二月に海外興業が設立される。当時の寺内内閣が朝鮮半島の植民機関である東洋拓殖会社法を改正し、東洋拓殖の資金を活用できる国策会社として、東洋移民合資会社、南米植民株式会社、日本植民株式会社、日東植民株式会社の四移民会社を統合して発足させたものである。これがブラジル移住における第一次国策と考えていい。しかし経営の実権は移民会社の幹部が握っており、結果として国策の名を借りた独占的な移民会社としての傾向を強めていくことになる。

 海外興業はさらにイグアッペ植民地を経営するブラジル拓殖会社(のちの国策会社ブラジル拓殖組合とは別)を併合することになり、イグアッペ側に一大恐慌を引き起こす。イグアッペ植民地は定着移住論者である青柳郁太郎によって創設された最初の日本人移住地だが、その中心であるレジストロ植民地は三〇〇家族の導入を目標にして開設されながら、一年以上たってもまだ一〇〇家族に満たない状態で、東京の株主の間では批判が続出していた。しかし、移住地の育成には長い時間が必要である。この状態で海外興業に吸収されると切り捨てられる危険があり、青柳は最後まで抵抗したが、結局政府の意向で合併を飲まざるをえなかった。

 イグアッペ植民地に期待をかけていた輪湖俊午郎は海外興業が実権を握る前に移住者を増やし、住民側の自治を強めるしかないと考え、レジストロ植民地への募集宣伝の役割を買って出る。そして一九一八年、ブラジル時報在職のまま帰国し、長野県で移住地の宣伝をして回っている。当然、このとき中村国穂の力を借りているはずだから、中村のブラジル信濃村構想はこのとき大きくふくらんだのかも知れない。しかし、輪湖を通じてある程度ブラジル側の実状も知っていたと考えられる。このとき輪湖はのちに信濃海外協会をつくった永田とは会っていない。

 輪湖は出稼ぎ移住の問題点を知らせると同時に、定着移住による新しい生活の創造を説いて回った。この輪湖の話を聞いて移住を決意したという人は多い。こうして翌一九一九年、長野県から一二〇家族がレジストロ植民地へ定着移住することになるが、これは画期的なことだった。当時、定着移住するにはかなりの勇気が必要だった。出稼ぎと違って二度と故郷へは戻らぬと言う覚悟が必要だったからだ。
 長野から多数の移住者が入植したことによって、レジストロは四百家族に達し、移住地の経営にも目途がつくようになった。また、移民後進県と言われた長野県出身者が一挙に多数派となり、信濃村構想は一気に盛り上がったと思われる。このとき信濃教育会で論議されたブラジル事情およびブラジル信濃村構想は当然、イグアッペ植民地の延長線上にあったはずである。イグアッペ植民地はサンパウロ州政府との間で十年間に二〇〇〇戸を導入する約束で州有地の無償払い下げを受けており、レジストロに引き続き、次々と移住地を建設するプランを持っていたからである。中村国穂の信濃村はこのイグアッペ圏内につくることを想定していたと考えられる。

 中村国穂はさっそくレジストロ視察へ出かけることになっていた。ところが出発直前(資料1で引用された文章を発表した年の暮れ)、当時流行したスペイン風邪にかかり、翌一九二〇(大正九)年正月早々に急死している。そして、中村国穂を失ったことで信濃教育会の信濃村構想は事実上消滅する。

 イグアッペはサンパウロの南二〇〇キロの地点にある。だが、後に建設されるアリアンサ移住地はまったく反対のノロエステ(北西)地方で、サンパウロを経由すると八〇〇キロの遠隔地である。当時、ノロエステは州政府が土地開放政策をとっていたこともあるが、輪湖にとって、理想の新移住地はイグアッペと訣別する必要があったのだ。

  アリアンサ構想の発端

 一九二〇(大正九)年五月、日本力行会の永田稠は文部省の委託を受け、海外子弟の教育事情視察のため中南米九カ国歴訪の旅に出るが、このとき、イグアッペのレジストロ植民地を訪ねている。レジストロではすでに長野県人会が誕生しており、かつて更級郡で農業技師をしていた北原地価造(きたはら・ちかぞう)が会長をしていた。永田はこの北原を訪ねるのだが、そこでたまたまレジストロに滞在していた輪湖俊午郎と出会うことになる。

 このとき、二人は初対面だが、どのような移住をすすめるべきかという点では、永田と輪湖では多少立場が違っていた。永田が会長をつとめる日本力行会は青年に海外の働き場所を紹介する組織であったが、その中心であったアメリカが移民制限法で事実上日本移民の入国を禁止したため、大きな転換期を迎えていた。アメリカに代わる国を探しださねばならなかったのである。当然、信濃村構想とは別な次元でレジストロに期待を持っていた。

 輪湖は一二〇家族のレジストロへの導入を実現したものの、海外興業がレジストロの経営権を握ると危険分子と見なされるようになり、輪湖をブラジル時報へ送り込んだ松村総領事が日本へ帰国したこともあって、輪湖はブラジル時報を退社する。そして、これを機に新聞界から足を洗い、移住問題に本腰を入れるようになる。

 輪湖は多くの長野県人を引き込んだ責任を感じ、当時レジストロ植民地の隣接部に新しく開設されたセッテバラス植民地に土地を購入し、自ら開拓農業との取り組みをはじめる。そして、レジストロへ出てきては海外興業の経営に批判を持つ北原地価造や医師の北島研三らと移住地改革についての会合を重ねていた。北島は医師として招かれたイグアッペ植民地の幹部であったが、医療者の立場から海外興業に対して強い経営批判を持っていたらしい。輪湖の移住地構想に衛生医療の問題が取り込まれたのは北島の影響があったからだろう。永田は「南米一巡」というこのときの旅行記に、輪湖の印象を「いい意味での海興に対する不満分子」と書いている。

  第一次国策移住のもたらしたもの

 第一次国策として誕生した海外興業は資本金九〇〇万円で設立されていたが、これに青柳のブラジル拓殖会社は一〇〇万円の資本金で参加している。資本金の比率は一〇%に過ぎない。このため、青柳の恐れていたとおり、利益の上がらない移住地経営は片隅に追いやられ、以後、レジストロは入植者と会社の間で営農計画、貸付金回収問題、学校設置問題など、紛争が多発するようになる。

 海外興業の利益を上げる中心はなんといっても出稼ぎ移住の斡旋である。土地を買って入植する移住者はせいぜい年間数十家族だが、出稼ぎ移住は年間一万、二万とうなぎ登りに増大していた。こうして海外興業は国策を笠に着た独占的な移民会社へと変質しつつあった。国策会社でありながら移住者に支給される渡航費から一人三十五円の手数料をとり、コーヒー農園主からも一人いくらの手数料を取って斡旋する。

 移住者たちはコーヒー園に放り込まれるとあとは自分で金をためて帰国するなり、ブラジルに土地を買って住み着くなり、それは移住者自身の責任とされていた。しかし、金をためて帰国できるような現実ではなかった。出稼ぎのつもりの移住者がいざ日本へ帰れないとなると、まず教育問題が深刻な段階を迎えていた。子どもたちは日本語は話せても読み書きができず、ブラジル語も生活レベルでは何とか使えても、読み書きができない。子どもたちは文盲(もんもう)のまま放置され、すでに数万の移住者が故郷へも帰れず、かといってブラジル人にもなれない悲惨な状態に追い込まれていた。それにもかかわらず、海外興業は日本でさかんに出稼ぎ移住を宣伝していた。輪湖はこれを日本政府による棄民と見なしたのである。

 輪湖はアメリカで記者をしていた頃、カリフォルニアでの日本人移民に対するはげしい差別や排斥運動を体験しており、母国によるバックアップがないと出稼ぎ移住がどんなに悲惨な状態に追い込まれるものであるかを知っていた。それだけに、日本の政財界から支援を受けて発足した青柳のイグアッペ植民地に大きな期待を持っていたのである。だが、その青柳も実権を失い、海外興業に期待が持てなくなった以上、移住者の問題を解決するには移住者自らが自立できる定着移住地をつくる以外に方法はないと考えるようになっていた。レジストロの古老たちが「アリアンサはレジストロで生まれたのだ」と主張するのはこのあたりの事情を指している。

 永田のブラジル訪問は海外子弟の教育事情視察であったから、やはり移住者の子弟が文盲のまま放置されている事態は大きな衝撃であったようだ。その上、長野県出身者が一大勢力をしめるレジストロ植民地に期待を持ってやってきたものの、海外興業の実態を聞いてみると、少なくとも日本側で想像していたほど甘いものではないことを思い知る。

 海外興業は国策会社といっても本質的には営利企業である。移住を営利会社から切り離さないかぎり、移住者の自立はあり得ないとする輪湖の見解については永田もまったく同意見で、この両者の結論が、のちに海外興業、つまり国策に依存しない、まったく新しい移住地建設を思い立たせ、その運動体として非営利の海外協会を志向させることになる。これがアリアンサ構想の始まりである。やがて信濃海外協会へと発展していく運動の始まりが長野県でではなく、ブラジルのレジストロ植民地から始まったことははっきりさせておく必要がある。それは中村国穂の信濃村構想を引き継いだものではなく、ブラジルにおける無責任な国策移住に対する輪湖の批判が土台になって生まれたものである。

 だが、このアリアンサ構想も日本力行会長永田稠との出会いがなければ日本側の運動になることはなかっただろうし、さらに海外移住に強い関心を持っていた長野県、とりわけ今井五介の支援がなければ実現への目途が立なかったことも事実である。

  永田稠と日本力行会

永田稠  永田稠は一八八一(明治一四)年、長野県諏訪郡下古田で生まれている。諏訪実業学校を出ると北海道の農事試験場に就職、日露戦争では旭川の連隊から従軍している。戦場へ出発するとき、仙台の駅で貰った慰問袋に新約聖書が入っていて、それがキリスト教へ入信するきっかけになったという。

一九〇五(明治三八)年に予備役少尉で除隊。すぐ日本力行会へ入り、アメリカへ渡っている。アメリカへ渡った永田は、すでに述べたように、カリフォルニア州で「北米農報」を発行し、日系農家自衛のため、北米日本人中央農会を組織している。輪湖との会談が日本側の信濃村構想を越え、思想的レベルまで深まったのは、二人が共に同じ時期のアメリカ移民の現状を知っていたためだろう。そして永田は日本力行会長島貫兵太夫(しまぬき・ひょうだゆう)の指名で、島貫会長没後の一九一四(大正三)年暮れ、二代目会長に就任するため帰国している。

 日本力行会とは一八九七(明治三〇)年にキリスト教の牧師・島貫兵太夫が東京神田に開設した苦学生支援の組織である。当時は経済的に貧しい学生や勉学志望の若者を「苦学生」と呼び、働きながら学ぶことを「苦学力行」と言っていた。こうした若者たちをバックアップするボランティア団体とイメージすればよい。地方から上京した苦学生のための寄宿舎を持ち、現在で言うアルバイトの斡旋をしたり、協賛する私学で学ぶ場合は学費の軽減や入学金の免除などを働きかけていた。一九〇三年(明治三六年)に石川啄木が上京したとき、生活に窮して力行会に寄宿していたという記録もある。

 日本力行会は当時労働力の不足していたアメリカやカナダに貧しい青年たちを送り込み、キリスト教精神にもとずいてお互いに助け合って勉学をつづけるというネットワークを持っていた。国際連盟の事務次長を務めた教育学者新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)は日本力行会の顧問として、この運動を積極的に支援している。

 日本力行会は永田の代になって、大きな組織に発展する。永田が中南米歴訪の旅に出た頃は、すでにアメリカ、カナダ、キューバ、ブラジル、アルゼンチンに力行会の支部があり、情報の収集やスケジュールの作成には各地元の力行会員が全面的に協力している。その点で、力行会は当時もっとも海外事情に通じた組織であったと言える。

  輪湖俊午郎

輪湖俊午郎  輪湖俊午郎は一八九〇(明治二三)年、長野県梓川村で生まれ、松本中学を三年で中退、単身アメリカへ渡っている。そして、アメリカで働きながら成人したという異色の経歴を持っている。輪湖自身はほとんど自らのことを語らなかった人で、ブラジルへ来る以前のことはよくわからない。現在わかっていることはおおよそ次のようなものである。

 当時、松本中学の英語教師にケネディという名物教師がいた。この人はカナダ人のキリスト教聖公会派の宣教師で、松本城のお堀でスケートをしてみせたり、美ヶ原を発見して紹介した人でもあるらしい。輪湖はこの人の影響で聖公会の英語の聖書研究会に参加していたようだ。十五才という未成年での渡米だから、アメリカ側にそれなりの引受人がいたはずだが、わたしが調べた限り、輪湖家にはアメリカに親類知人はいない。渡米するとすぐカナダのビクトリア市で聖公会の洗礼を受けているから、やはりケネディ牧師の計らいによるものと思われる。

 アメリカではユタ州、ワイオミング州といった中西部の鉱山や鉄道敷設工事で働いている。ブラジル再移住前はユタ州ソートレークで邦字新聞ロッキー時報の記者をしていた。ロッキー時報は輪湖の生まれた梓川村の隣村・三郷村出身の市村(飯田)三郎・飯田四郎の兄弟が経営していた新聞である。輪湖は特に市村三郎に人格的影響を受けたと書いている。

 輪湖がどこであれほどの知識と文章力を身につけたのかはいまだになぞである。ブラジルに再移住したのは二十三才の時だが、一年後には金子保三郎と組んで「日伯新聞」を創刊している。まだ日本語活字がなかったため石版刷りで印刷しているが、製版技術も持っていた。ロサンゼルスの邦字新聞で働いていたという記録があるから、文選工をしながら独特の文章力と知識を身につけたのかも知れない。文選という仕事は一九七〇年代まで行われていた印刷工程で、原稿を読みながら一字ずつ活字を拾っていく仕事だが、ある意味で文章ともっとも深くつきあう仕事であった。

 輪湖は日系社会では伝説的人物である。少年時代から肉体労働者の中で人格形成したこともあって、生活者との間に垣根がなかったし、日本で高等教育を受けなかったためか、高学歴者にありがちな型にはまった言動がなく、実に自由な人だったらしい。そのため一般の入植者や青年たちから非常に親近感を持たれていた。輪湖と接したことのある人はきまって、いつも飄々(ひょうひょう)とした人でまったく偉ぶるところがなかったし、決して人の悪口を言わない人だったと異口同音に評している。また、移住地造成にかかわった人はみな相当な財をなしているが、輪湖は終生清貧に甘んじて生きたということも、輪湖を伝説的人物に仕立てているようだ。

 言論人としての輪湖はブラジル日系社会最初の移住者実態調査といわれる「のろえすて年鑑」(一九二五年)や、世界大戦の不安が高まる一九三〇年代後半、帰国か永住かで揺れる移住者の実態をまとめた「バウルー管内の邦人」(一九三九年)など、当時のブラジル移住者の実状を知る上では欠かせない名著がある。一九四〇(昭和一五)年の紀元二千六百年祭には日本政府からブラジル邦人代表として招請を受けて帰国。青柳郁太郎を編纂委員長とする「ブラジルに於ける日本人発展史」(一九四一年、上下二巻八〇〇頁)の編纂に参画し、その三分の二は輪湖が執筆したと言われている。これらの著作は現在でもブラジル移住の基本的文献とされている。

 一九四一年、太平洋戦争の始まる直前に最後の船でブラジルへ帰るが、開戦と同時に枢軸国(ファシズム側の国)要人として逮捕され、十一ヶ月間の獄中生活を送っている。

◆資料4  イグアッペ植民地・レジストロ植民地

 1910年、桂内閣のバックアップで東京商工会議所会頭であった渋沢栄一を社長とする東京シンジケート(現地法人名はブラジル拓殖会社)が設立され、サンパウロ州政府から無償土地払い下げを受けて開設した最初の日本人移住地。桂、レジストロ、セッテバラス、ジュキアなどの植民地があり、国道沿いのレジストロ植民地が中心地となった。サンパウロ南方のイグアッペ地方(地図参照)にあったため、それらを総称してイグアッペ植民地と呼ぶ。
 創設者の青柳郁太郎(1867-1943)はアメリカ・カリフォルニア大学に学んだ人で、早くから政府に定着移住の必要を提唱していた。ドイツの植民政策に関心を持っていた青柳は政財界を動かし、精米所や医療設備も整えた、当時としては画期的な移住地を作り上げた。だが、思うように移住者が集まらず、困難な経営をつづけ、1919年に国策会社・海外興業に併合される。
 青柳に共鳴してアメリカからブラジルへ再移住した輪湖は、住民の自治を強めるため、急遽帰国して移住者の募集宣伝に奔走。だが、海興幹部が実権を持つようになると、住民との対立が強まり、青柳が当初抱いたような理想を実現することはできなかった。

◆資料5  アリアンサ構想をめぐる動き
1917年 6月輪湖、松村総領事の依頼でブラジル時報編集長に。
1917年12月国策会社・海外興業株式会社が設立される。
1918年 4月イグアッペ植民地の経営権は海外興業に移り、住民の間に不安がひろがる。
1918年 7月輪湖、定着移住者募集宣伝のため帰国し、奔走。
1919年 3月長野県より120家族がイグアッペ・レジストロ植民地へ移住。長野県出身者多数を占める。
1919年 8月中村国穂、「信濃教育」に信濃村建設を提唱。
1920年 1月中村国穂、スペイン風邪で急逝。
   初頭輪湖、海興幹部と対立し、ブラジル時報を退社。レジストロ植民地の移住者らと移住地のあり方を検討
  6月永田稠は中南米歴訪の途中、レジストロ植民地を訪問。輪湖と会談し、アリアンサ構想の出発となる。
1921年初頭輪湖日本に帰国し、新移住地の建設を呼びかける。
1921年12月永田、方向転換し、信濃海外協会設立に動く。
1922年 1月信濃海外協会設立。
1923年 5月信濃海外協会、ブラジルに信移住地建設を宣言。
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