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木村 快
移住とは人間の暮らしを異文化圏へ移動させることである。送り出した側の思惑だけで移住を語ることはできない。すでに見てきたように、国情のまったく異なるブラジルでのアリアンサ建設は、輪湖のようなブラジル側に身を置いた優れた専門家の協力があってはじめて実現したものであって、自己本位な移住計画がどのような結果を招くかは海外移住組合の失態が何よりもそれをよく証明している。満蒙での分村移住が可能だったのは軍事力による支配を背景にしていたからである。そうした移住は、軍事力の崩壊と共に悲惨な状態に追い込まれることもまた歴史が示している。
アリアンサ移住地はとかく郷党的心情に流されがちだった日本人の移住事業の中にあって、明確な移住理念をかかげた異色の移住地であった。これまでの産業史本位の移住史では、仕事のできない、風変わりなインテリ移住地としか見られなかったが、共生協同が求められる現代から振り返ると、たいへん貴重な歴史的財産である。
しかしまた痛恨の歴史でもあった。やがて日 本が世界情勢の中で孤立していったため、ブラジル政府による日本人移住者への圧迫が強まり、ついに一九三八(昭和十三)年、住民保護の立場から経営権をブラ拓に移譲し、終止符を打つことになる。だが、この点でも熊本が昭和四年、鳥取と富山が昭和九年、それぞれブラ拓に併合されたことを考えると、信濃は最後までよく頑張ったとわたしは評価している。その原動力は「郷党的親睦思想」と考えるより、日本全国から集まった移住者たちの「自治と協同の夢」によるものと考える方が自然だろう。孤立しながらも国策に抵抗するアリアンサでは、永田稠の「コーヒーより人をつくれ」が困窮に耐えるためのスローガンとして使われたことが知られている。
信濃アリアンサは戦後、創立以来の出資者および資金借入者に対する三〇万円の精算業務を行い、信濃海外協会を通して出資額および借入額の四十倍にあたる千二百万円を返済している。戦争をはさんだ二十五年をへて、出資者に対して誠実に精算を行ったのはおそらく信濃アリアンサだけではないかと思われる。戦後、移民という用語は棄民を連想させるということで、外務省は「移住」という用語を使用するようになった。だが、意識的にこの用語を最初に使ったのもアリアンサ移住地である。
アリアンサの三移住地は今なお健在である。アリアンサ以後に国策で造られたバストス移住地(現バストス市)、チエテ移住地(現ペレイラ・バレット市)、トレス・バーラス移住地(現アサイ市)などの大移住地では大半の日系人がサンパウロ市へ移動してしまい、ほとんど日系移住地のおもむきはない。アリアンサ移住地だけが今でも農業を継続し、日本語の通ずる唯一の移住地と言われている。
ブラジルは各国からの移住者によってつくられた国であるから、それぞれの母国文化を背負って国づくりに参加することが求められる。母国文化と切り離されることはブラジル人としての役割が果たせないことを意味する。このことはすでにアメリカ合衆国においても立証済みの問題である。日系は何かというとドイツ系移住者と比較され、アイデンティティの喪失を指摘されがちだが、それでもアリアンサのコムニダーデ・ユバ(弓場協同農場)のバレエ活動は農民による現代バレエ団として広く知られ、一九九二年の地球環境サミットにも日本NGOを支援して国際イベントに出演するなど、ブラジル日系社会のシンボルになっている。こうしたユニークな農場を育て、広く活躍させているのもアリアンサに協同を志向する文化的風土があったからである。
第二アリアンサへは信濃と共同した経緯を持つ鳥取県教育委員会から、現役教師が日本語学校教師として派遣されている。第三アリアンサへも同じく富山県教育委員会が現役教師を派遣している。両移住地とも今では特に県出身者が多いというわけでもない。こうした支援はもはや母県からの援助というよりは、新しい国際支援として評価すべきであろう。
しかし、アリアンサ移住地を呼んではばからない長野県は、なぜか教師の派遣を断っている。そのため、第一アリアンサにはJICA(国際協力事業団)の青年ボランティアが日本語学校教師として派遣されている。また、アリアンサの歴史を確認するために必要な信濃海外協会の資料は長野県更埴市の長野県立歴史館に所蔵されているが、一般への閲覧は禁止されている。
二十世紀の移住を振り返ってみて思うことは、実は多くの移住者を送り出したことが問題なのではなく、送り出した移住者に対して責任をとろうとしないことに最大の問題があるのではないだろうか。そしてこの課題は、現代においてもわたしたちの克服すべき課題として残されているような気がする。
二十世紀は人間の営みを産業史的視点からのみ語ってきたが、価値観の転換が求められる現在、文化史的視点で再評価する必要がある。移住の問題についてもとかく経済的視点でのみ語られすぎた。移住者の側から語られる異文化接触史としての移住史、国際史が必要である。